昔、母が言っていたことをふと思い出した。なぜ父と結婚したのかと聞いた時のことだ。初めていったデートで映画を見終わってもすぐに立ち上がらずに余韻を楽しむ人だったから好きになったとのこと。その当時は分からなかったが、大人になった今だとわかる気がする。きっと余裕があってせっかちな人ではない人を母は好きだったんだということに。
では、私の場合は?
すでに立ち上がってざわざわとする館内。そして横をちらりと見ると綺麗な寝顔を存分に見せつける男。これは余裕があるということなのか?いや、違う。溜息をひとつ吐いて私は肩を軽く叩く。

「なんかさ、ここで映画見るといつも眠くなるんだよね。」

よく眠れたと伸びをして立ち上がる趙を見ながらそりゃ、良かったねと嫌味混じりの一言。
喉が渇いたという趙の横に並び歩く。次の行き先がどこなのかを分かっているというのは付き合いが深い証拠。それでも深いからといっていい事ばかりでないのが現実だ。

「椿は何にするの?」

メニューを見ながら目に付いた新商品のミントティーを指す。趙はいつも通りのコーヒーをオーダー。そして空いている席に座る。本当なら見終わった映画の話でもすればいいのだが、生憎語り合う相手は寝ていた訳で何だか手持無沙汰な気持ちだけが残る。

「おもしろかった、映画?」

「まぁまぁかな。」

氷を避けながらミントの葉を潰してストローで一口飲む。ちょっとだけさっきまでの嫌な気持ちが中和されるような爽やか味が喉を通り抜ける。どうやら導入部分は見ていたようなのか趙はあのヒロインの子、可愛かったよねなんて言っている。
たぶん、以前まではそんな何気ない会話も楽しんでワクワクしていたのだろう。好きになって一緒にいられる。昔はそれだけで満足だった筈なのに、人というのはやはり欲深いのだろう。先を見据えて今の怠惰な時間を楽しめなくなっている自分がいる。

「やっぱり、今日は帰る。」

「何で?」

それには答えず、静かに立ち上がり通りに出る。この憂鬱な気持ちは6月特有のモノなのかそれともここ最近ずっと趙に対して想っていたことなのか。答えは分かっているけれど口には出したくない。きっと出せば面倒な女だと思うに違いない。

「待ってよ。」

そう言ってようやく私の足に追いついたのか腕を強く掴まれる。反射的に顔を上げて趙の顔をまじまじと見る。そういえば今日、初めてちゃんと目を見たたような気がする。

「椿、何イライラしてんの?」

「別に趙には関係ない。」

そう話して腕を振りほどく。趙は少しだけ傷ついたような顔をしていたのが視界の隅に入るが私は歩みを進める。この感覚はわかる。別れの前の時の感覚に。後ろからは足音はしないし、私も一端進めた歩みは止められない。でも、私の歩みは止まった。

椿!!

通りにいた人がみんな振り返るような大きな声。思わず恥ずかしいのに歩みは止まって振り返る。こんなに大きい声を出すんだ。付き合いは長い筈なのにまだ知らなかった部分に触れて動揺する。趙は嬉しそうににやりと笑う。そして言葉は続く。

俺と結婚してくれない?

私がその場に動けず言われた言葉をじんわりと飲み込んでいく。今、なんて言った?ケッコン?結婚?

ぐるぐると脳内を巡るその文字で頭がいっぱいになっていると趙は捕まえたと言って私を抱き留める。周りはざわざわとしていて私はどうしていいかわからずとりあえず腕を趙の身体に巻き付けて零れ落ちる涙。
言って欲しかったんだ、その言葉。想っていた理想とは違う。けれど、嬉しくて愛おしくてさっきまでのモヤモヤは全てなくなってしまう。ずっと待っていたその言葉。

「椿、返事は?」

「…私でよければ…。」

その言葉を聞いてやったじゃん、俺と耳元で囁かれる。辺りにいた人は抱き合う私達を見て歓声と拍手。嬉しさの後から恥ずかしさが急に出てきた私はとりあえず紅い顔を隠す為にまだ趙の胸元に顔を置いている。

長く続いた心の雨はようやく止んだ。















溜息には色々と種類がある。多くは疲れた時や嫌な時にでることが多い。でも時には甘い溜息もある。

「趙、どこ行くの?」

「決まってんじゃん、もっと愛を深められる所だよ。」

そういって私の左手の薬指にそっと触れて意地悪く笑う。今日最後に吐く溜息はベッドの上になるだろう。恥ずかしくなりながらも同意の意味を込めて私は握られた手をぎゅっと掴んだ。決して離れないようにとささやかな誓いを込めて。


溜息の行方




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