私の新しいご主人様ですか?とても良い方です。えぇ、本当にそうですよ。
街では狂犬なんて恐れられていますが、とても優しく手厚くしてもらっています。

以前ですか?それは本当にひどい場所でしたね。
河原に辿り着くまでに何人もの相手をしてきましたが、本当にどれもひどいものばかりでした。そしてあの日、私はあの人に拾ってもらったんですよ。

◆◇◆

流れ流れて行き着いた場所。
賽の河原。
ここでは人の欲を満たすものが何でも揃う。その場所で私は欲を売る側。そして毎日格子越しに買う人達を見る。いつもと変わらない日常。今日もいい頃合いになって誰かに手を引かれ、そしてまた次の日にはここに戻る。いつまで経っても変わる事がない蟻地獄のような世界。どう足掻いても自分が買う側に回ることは一生ないのだろう。
そんな風に虚ろな眼で格子の外を見ると1人の男がじっとこちらを見ている。まさか自分ではないだろうと思いながらもその男は静かに近づく。

「名前は何ていうんや?」

「……………。」

いつもならはっきりと答えるのに私は一瞬開きかけた口を閉ざす。周りにいた女達が見えないように私の膝を抓ったり叩いたりしていたからだ。こんな場所でさえもヒエラルキーが存在していて上客は上の姐さんにという暗黙のルールが存在する。今、私の目の前に声を掛けてきた男はまさに上客ということになる。
私が黙ったままで俯いているのを見て男はまぁ、ええわと言って私を出すように話している。姐さん達も負けじと甘い声を出してその男の人に私にしないのと声を掛けているが、一切、見向きもしない。

「名前は何ていうんや?」

「………椿です。」

私の手を取る男。ようやく私は観念して名を告げると嬉しそうにしている。束の間の外の空気を感じながらまたあそこに帰ったら姐さん達に何をされるか分からないという恐怖を感じる。

「あの、部屋はこっちですけど…。」

「はぁ?」

男は出口の方に向けて歩き出している。ここを出ることなんてまずないと思っていたことだから驚いて歩みが止まる。そう、だって身請けでもしない限り無理なことだから。

「今日から椿は俺の女や。」

そう言われて俯いていた顔を上げる。
初めて顔をはっきり見た。
綺麗な顔だなぁとそんな風に思いながらも本当にこの手を取って大丈夫なのか不安になってくる。それは左目についている眼帯であったり、胸元に散っている刺青だったり。
そして一番思ったことは…私を見る眼。

少し狂気じみた色を含んだ眼だなぁと。

それでも外に出られることには変わらない。選択肢は一つ。私は革手袋越しの男の手を強く握ることしかできなかった。

◆◇◆

それからですか?順調ですよ。えぇ、本当に。とても優しい人です。
不満ですか?…そうですね、ないと言えば嘘になりますが、でも取るに足りないことです。そういう無駄な感情は持ってしまってはいけないですから。そうなんです。

「椿、帰ったで。」

「真島さん、お帰りなさい。」

すでに真島さんが私の手を取ってから数か月。今までの人生で何度か男の人に拾われることはあったが、どれもひどいものだった。それに反してこの真島さんの許にきてからは本当に私を1人の人として扱ってくれて大切にしてくれる。ただ、それだけで良かったのに、どうして人というのは欲張りなんだろう。

「今日も綺麗やのぅ…。」

夜になれば私を大切に一つずつ触れていく真島さん。
自分の身体に欲の熱が帯びてくる。
でも…。

「マコト、今日も良かったで。」

濃厚な情事が終わり告げられる言葉。
そう、私の名ではない誰か。
そう、誰なのかは分からないし、聞くことができない。
聞いてしまえばあの場所に戻される。
それが怖い。

それでも知りたい気持ちを今日も抑えて私は椿 を捨ててただ、マコトという人物になりきるだけ。

初めてきた日に真島さんは私の長かった髪を切るように告げた。
きっと似合うで、短い方が。そう言われて私は有無を言わさず切った。

それはマコトさんがその髪型だから?

この生活に慣れてきた時にふと言われたこと。
ずっと部屋におるのも退屈やろ。手に職でもつけたらええでと言われて私は整体師の資格を取るように言われた。

マコトさんは整体師なの?

聞きたいけれど聞けない。
いつの間にか、ここでの私の名前はなくなった。河原にいた時からあってないような名前だったけれど、それでも最初の時のように呼んで欲しいと思うのはおこがましいのだろうか?


私のご主人様ですか?本当にいい人ですよ、えぇ、本当に。
そう、たとえそこに愛はなくても、誰かのかわりだったとしても。



贋者



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