私にとっての一番はあなた。
あなたにとっての一番は…。
困らせてしまうのがわかっていたから、その質問は今までしてこなかった。自問自答はよくしていたが。その答えは私ではない。そう、きっと、あの人も私ではなくあの子のことを一番だと思っているだろう。
わかっていた。わかっていた筈なのに…。
「椿は危ないからここにいろ。」
「でも、私も…。」
「いや、俺が一人で何とかしてくる。」
私の答えを聞くまでもなく、駆け出す背中。私は手を伸ばすがその手は届くことがなく、小さくなっていく背中を忌々しく思うだけ。
あぁ、やっぱり桐生さんにとっての一番は私ではなかった。
緊迫した状況なのに、こんな事を思う私は馬鹿だ。いや、こんな状況になってこそ、思うことなのかもしれない。しばらくぼんやりとしていたが、すぐに状況は変わる。
早く逃げろ!
こっちからも来たぞ!
た、助けてー!
あちらこちらから阿鼻叫喚の声が。ここがもはや神室町とは誰も思わないだろう。一瞬のうちに廃墟のような街並みに変わってしまっていた。逃げないと…。ぼんやりしていても、状況は変わらない。とりあえず、桐生さんが無事であることを願いながら、目についた建物の中に入る。
ペタペタペタ…。
ここに来てようやく自分の今の状況に気づく。今日は桐生さんとデートだと思って綺麗にしてきた筈なのに、ワンピースはあちこち汚れや血が。ストッキングはあちこち破れて使い物にならない。足のあちこちも血や痣が目立つ。今日の為に新しく履いたヒールの靴も無残だ。片方はどこかで落として、片方はヒールが折れている。
普通だったら痛い。けれど、今は状況が状況だ。命があってこそ。噛まれていないならまだ見込みはある。そんな絶望的な状況が今の希望だ。
桐生さん…。
今頃、どうしているのだろうか。すぐに何かに巻き込まれてしまう性格のあの人のことだから、きっと人助けのひとつやふたつしているだろう。本当に優しい人だ。憎らしいくらい。その優しさを全て私に注いでくれれば、こんな風にならなかっただろう。
かつん、こつん…。
静寂を切り裂く音がふいに聞こえた。初めは気のせいと思っていたけれど、徐々に音が近づいてくるのを感じて身構える。大した力もない、武器もない。ぎゅっと自分の鞄を握り、その場で待ち構えることしかできない。
かつん、こつん、かつん…。
足音が止まる。そして視界に入るもの。私はじっとその人物を見つめる。パイソンジャケットを素肌に羽織って、レザーパンツを履いた男。それだけなら不思議な人とは思わなかっただろう。その男の目には眼帯、そして隠そうとしない胸元に散る入れ墨。
あまりにも奇抜過ぎて言葉に出ないというのはこういうことなんだろう。私はただ、その男を静かに見つめていた。口火を切ったのは男の方からだった。
「なんや、まだ生き残っとるもんおったんかいな。」
妙に明るい声で言う男。普通だったら逃げ出したくなるような風貌の男なのに、なぜか嫌な感じがしなかった。それはきっとあの人の影響だろう。人を見た目で判断しないというのが私のモットーだ。
それが真島吾朗との出逢いだった。
◆◇◆
「ほぉ、そんなら椿チャンは連れとはぐれてしもたんか?」
「そうです…。」
可哀そうやのぅ…と言いながら私の横に腰かけて煙草に火を点ける真島さん。簡単な自己紹介をして、お互いの今の状況を話した。一人でこの場にいるよりも、誰かといる方が随分気が楽になる。さっきまでの暗い感情はだいぶましになっていた。それはこの真島さんの持ち合わせている陽気な雰囲気も影響しているのかもしれない。
「それにしても、その連れは迎えに来んのか?」
「私の他に助けが必要な人がいて…。」
さっきまで思い出さないようにしていた核心を突かれて言葉に詰まる。すると、真島さんは言葉を続ける。
「ひょっとしてはぐれた連れって椿チャンのこれかいな?」
真島さんはイヒヒと笑いながら小指を立てる。すかさず、それは彼女の場合じゃないんですかと話すとそうなんかぁ、知らんかったと言っている。私にしてはうまく誤魔化せたと思っていた。その核心から離れた話題にしたかったからだ。でも、真島さんは気づいていたようだった。
「しっかし、その彼氏もひどいのぅ、こんな可愛い子置いて行ってしまうなんてなぁ。」
「真島さん…。」
違う。桐生さんはそんな人じゃない。ただ優しすぎるだけだ。優しすぎるから、こんな風に私が惨めになってしまうだけ。私の心が狭いだけ。
「椿チャン、泣いとるで。」
「えっ…。」
また涙が零れて落ちる。真島さんは急に話を止めて、煙草を足元で消していた。そして私の顔をじっと見る。
「俺やったら、こんな風にせぇへんけどな。椿チャンのこと。」
そういって、腕をひかれ、真島さんの胸元に落ちる。優しく頭を撫でられる。わかってる、この人は桐生さんではない。けれど、ここには私の求めていた温もりが確かにあった。
「真島さん、取り乱してしまってすみません…。」
「いや、ええんや。落ち着いたようで何よりや。」
さっきと違って、もう笑わなくなった真島さん。急に変わった空気。不思議に思って尋ねると、真島さんは重い口を開いた。
「えっ…。噛まれた?」
真島さんはゾンビに噛まれたと言った。普通はすぐにゾンビになるようだが、真島さんはまだなっていないようだ。袖口をそっと捲ると痛々しい傷が。
「今までいつ死んでもええって生きてきたんや。けどな、こんな風になって初めて思ったんや。このまま死んでまうんかって。」
「真島さん…。」
さっきまで私を慰めてくれていた真島さんの弱気な声。けれど、大丈夫ですよなんて軽々しいことは口にできない。何か、私にできることは…。
「だからな、椿チャンにお願いがあるんや。」
「私にできることなら。」
「椿チャンにしかできんことや。」
さっきまでは死んだ目をしていた真島さんの目に光が差していた。そしてまたあの笑みが戻ってくる。
数時間後…。
本当にこれで良かったのだろうか。まだこの選択が正しかったかどうかわからない。私が目を覚ました時にはすでに真島さんの姿はなかった。もしかすると、変異が始まっているのかもしれない。
『椿チャン、抱いてもええか?』
真島さんのお願いは想像以上のものだった。けれど、結果的に私は真島さんと一晩過ごすことになった。真島さんの人生最期という言葉が自分の中で引っ掛かっていたからだ。
真島さんにとっていい思い出になったのかなぁ。
真島さんは終始優しく私を抱いた。時々、桐生さんとの情事がちらついたけれど、自分の中ではちょっとした抵抗があった。私を一番に思わないあの人が悪いんだと言い訳を。すると、不思議なくらい罪悪感を感じなかった。寧ろ、気持ちよかったと思えるくらいだった。
そして、それから数時間後、ゾンビが全ていなくなったことを知らせる人がやってくる。私は恐る恐る立ち上がり、出口へ。
「椿!無事だったのか?」
「うん…。桐生さんも無事で良かった。」
「椿お姉ちゃん、一人にしておじさん、ひどい!」
「遥ちゃん、私は大丈夫!大人だから。」
いつも通りの日常が戻ってきた。そう、大丈夫、私は。ちゃんと、うまく笑えている筈だ。
かつん、こつん…。
桐生さんがある方向に声を掛けている。私も同じようにその方向に目を向ける。そして、言葉を失う。
「兄さん、無事だったんだな。」
「当たり前やろ。ゴロちゃん、変わらずピンピンしとるで。」
2人の会話を聞いて、知り合い以上の関係だということがわかる。胸がざわざわとざわめくのを感じる。真島さんは、私に気づいているのかいないのか。
「桐生チャン、隣におるの桐生チャンの女か?」
「あぁ、兄さんにはまだ紹介してなかったな。椿だ。」
「へぇ、椿チャンって言うんか。可愛い子やのぅ…。」
真島さんはひとしきり桐生さんを揶揄ったあと、去っていった。でも、私は静かに震えていた。真島さんの去り際の言葉がずっと耳に響いていたからだ。
“椿チャン、またな”
何ともない言葉だと人は言うだろう。けれど、その言葉は深い意味を持つ筈だ。きっと、私は近いうちに真島さんと再会することになるような意味を持つ含みを持った言葉に聞こえた。
まるでそれは真島さんの身体に描かれた蛇のようだ。
一度纏わりついたら離れない。
私はその蛇に捕まった獲物のようだと。
トリアージ
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