一度黒に染まってしまうともう白には戻れない。
今の私がまさにそうだ。
それでも失われた白を求めてさまよい歩く。
要は悪あがき。
◆◇◆
今日も散々弄ばれた身体。回復することのない疲労を感じながらベッドを静かに降りる。事が終わり、用事があると言って部屋を出ていった。ならば、私は帰るのみ。このままここにいても変わらない。ならば早く一人になりたかった。
「椿チャン、逃げようと思っても無理だからね。」
「えっ…。」
初めて趙さんの黒い部分を垣間見た後、茫然としていた私に告げられたのは更なる不幸だった。行為が記録されていると思われるビデオカメラの存在を告げられる。ご丁寧にその記録されていたものをどうするかまで耳元でそっと囁かれる。
“春日くんがこれ見たらどう思うだろうねぇ”
耳にこびりついたその言葉が頭の中をぐるぐると回り、私には従うという選択肢しか残されていなかった。それから不定期に連絡を受けては私は趙さんに弄ばれる日々。
随分と汚れてしまったな、自分は。
とぼとぼと一人暗い夜道を歩きながらそんな事を。もう戻れない。どうしてあの時、私は望んでしまったのだろう。後悔しても現実は変わらない。
そして今日も前を通りすぎるだけ。窓から明かりがついているのを見て、誰かいるのかな、春日さんがいるのかな。僅かに残る希望。サバイバーの明かりを見る事だけが今の私の心の拠り所になっていた。本当はドアを開けて中に入りたい。でも、黒に染まった私にはそんな資格などない。
いつまで続くのだろうか。
早く飽きて捨ててくれたらいいのに。きっとその時には…。ふとした時に見せる趙さんのマフィアのボスとしての怖い表情を思い出して最悪の結末を考える。そう考えると今の五体満足の状態は傍から見れば幸せなのかもしれない。
「お、椿じゃねぇか!」
その声に思わず歩みが止まる。もうこの声が聞けるなんてまさか思っていなかった。胸に込み上げてくるものをぐっと堪えながら春日さん、お久し振りですとだけ告げる。
「どうした?元気ないな。なんかあったか?」
そっと顔を覗き込むように私を見る春日さん。まるでそれは太陽のようだった。黒に染まった私でも綺麗に照らしてくれるような。僅かな希望を持ちたくなるような。折角ここまで来たんだから飲んでいくかと言われてそのままサバイバーの中に。久し振りのその空間に胸が熱くなる。もうこんな風に春日さんと話をするなんて無理だと思っていた。
でも、希望なんて持ってはいけなかったんだ。
「乾杯!」
春日さんがグラスをかちんと当てて私の隣にいる。以前と変わらない光景。それなのにどこか懐かしく愛おしく感じる。最初は緊張していた私も徐々にいつもと変わらない状態になって春日さんとの会話を楽しむ。
そう、それはまるで夢の中にいるような。
「椿、鳴ってるぞ。」
すみませんと断ってスマホの画面を見る。途端に私の顔は色を無くす。送られてきたその画像。何も纏っていないその姿。こっそり撮られていたもの。勿論それが誰が撮ったのかはわかっていてこのメールを送ってきた人物。その画像は今の変わってしまった自分を物語っていてやっぱり甘い夢なんて持っちゃいけないんだということを思い知らされる。
「どうした、何かあったか?」
「いえ…何でもないです。」
気づかれないようにスマホを鞄の中に入れて電源を切る。そう、今だけ。そう、今日だけ。夢から醒めた現実にはまだ戻りたくない。まだ抗いたかったんだ。
「じゃあ、飲み直すか。」
お互いカラになったグラスを交換してもらい、新しいものに。そう、まだ飲み足りない。このまま飲み潰れてあわよくば春日さんに…。
からん…。
そんな淡い期待も虚しく後ろのドアが開く音がする。見なくても誰か分かるのは隣りにいた春日さんがその名前を告げたからだ。
「2人で飲んでるとか珍しいじゃん。」
俺も混ぜてよと何にもなかったかのように空いていた私の隣に座る。さっきまでこの空間はとても居心地のいい空間だったのに今は全く違ってここから早く逃げ出したくなる空間に。そんな事に構わず、2人は楽しげに会話をしている。私は途端に言葉を発することができず、全身から吹き出す冷や汗を感じていた。
「それにしても今日の趙、やけにご機嫌だな。」
「わかる?春日くん。」
それはまさに突然だった。2人の間に挟まれて行き場を無くした私はただ軽い相槌を打っていただけだった。でも、趙さんは全てわかってやっていたのだろう。
「実はさ、俺と椿、付き合い始めたんだよね。」
「まじでか!」
思わず反論しようと声を出そうと思ったがそれはできなかった。私の膝にそっと手が置かれた趙さんの手。そしてその手は情事の時を彷彿とさせるような触り方に。決して自分の心は変わっていないのに身体はすでに趙さんのモノになっていて僅かに反応が遅れ、言葉が封じ込められる。
「良かったじゃねぇか!」
そして私の肩に春日さんの手が置かれる。本当なら春日さんに触れられて飛び上がるほど嬉しい筈なのに、今は全く何も感じない。全てもう終わりなのだ。まるでそれは映画のラストを見る前にオチが分かっているような感覚に似ている。
「じゃ、ご両人、これから仲良くな。」
用事ができたと言って先にサバイバーを後にする春日さん。そして残された私達。殺伐とした空気が流れる。心地よいジャズの音色は途端に雑音に変わる。
「だから言ったじゃん。俺には手に入らないものはないんだってさ。」
そういって綺麗に笑う趙さん。多分、これが好きな人の笑顔なら見惚れるのだろう。でも、私は違う。ほら、帰るぞと言って私の腕を掴んで店の外に。私はずっと黙ったままだった。
「やっぱりさぁ、逃げられないように足枷とか手枷とか必要かもね。」
喉の奥の方でくつくつと笑いながら話してくる趙さん。狂っている、全て。それでも抗えないのは身体だけはこの男にどっぷりと浸かっていてしまっているのだろう。
心が沈むのも時間の問題か。
そっと目を閉じると春日さんのお日様のような笑顔が浮かぶ。もうきっと見る事はできないだろう。残るのはこの残像のみ。
まだ私は本当の地獄を知らない。
知るのはこれから。
地獄の果て
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