初めてエリーゼに入ったとき目に入った水槽のクラゲ。優雅に泳ぐ様を見て私は思わず見入ってしまった。
「綺麗ですね。」
「クラゲってうまく水流を作ってあげないと弱って死んじゃうんだよ。」
私はその言葉をじっと飲み込み思う。
まるで私のようだと。
いつもそうだ。
私は誰かに支えられていないとうまく生きられない。
◆◇◆
「最初から知ってたんですか?」
「何がや?」
「エリーゼで働いていたことです。」
まるで興味がないように目の前の男はそうやと話す。店で見たジャケットが床に乱雑に置かれているのが目に付き、私はハンガーにかける。まるで自分の家にようにしているこの男が嫌いだからだ。少し皺のついたワインレッドのシャツ、だらしなく下がる黒のネクタイ、そして笑う男。
「真島さん、約束覚えてますよね?」
ふとした瞬間に怒りが零れ落ちそうになるのを抑えながら冷静な口調で話す。
そんな様子に気にも留めず勿論覚えとるでとあっけらかんとした声で答えは返ってくる。
「じゃあ、わかってますよね。鍵、返してください。」
「まだ期限は残っとるやろ。」
「遊びは終わりです。鍵を返してください。」
掛けているジャケットのポケットを探ろうとすると掴まれる腕。
「俺は遊びのつもりちゃうで。」
「どっちでもいいです。早く返してください。」
抑えていた感情はいとも簡単に怒りへと。
私が睨むとそんな事に慣れているのか気にせず笑う真島さん。
「なぁ、椿、あの男なんやろ。」
「何がですが?」
怒りの気持ちからすーっと冷たいものが自分自身に流れ込む。
そして鼓動は早くなる。
鎮まれ、冷静になれ。
そう思っても動揺は隠しきれず、やっぱりなぁという真島さん。
「あの男のどこがええんや?」
「真島さんには関係のないことです。」
そう、この想いは自分だけのもの。
誰にも侵されたくない。
秋山さんだと知られたくなかったのにその場の勢いで返答してしまったことでますます私の立場が悪くなる。
知ったらどうするつもりなのか?
きっと秋山さんのことを調べるだろう。
そしてどうする?
危害を加える…かは分からない。
でも相手はヤクザ。
何をするかは分からない。
間違えなく私のせいで秋山さんに迷惑が掛かってしまう。
それだけは絶対に避けたい。
「……関係あるやろ。」
「…ないです。」
掴まれていた腕を振りほどき、再びジャケットを探ろうとすると黙ったままの真島さんは強引に肩を掴んでベッドに降ろす。丁度押し倒された状態のようになり、今日初めてはっきりと顔を見た。
「まだ分からんのか?」
「だから、何ですか!離してください。」
射抜くようなその右目。
反らすことができない。
「…惚れとんのや、椿に。」
「えっ…。」
その言葉に動揺する私。
確かに自分の女になれとは今まで言われてきたが、その意味を理解することをしてこなかった私。どうせヤクザの考えることだから人気のキャバ嬢を自分の女にしておけば箔がつくとかそんな風に思っていた。
でも違う。
今、私の眼をじっと見る真島さんは本気のように…思える。
確信はないけれどそんな気がする。
惚れている。
今まで好きだ、愛している、付き合おうなどという言葉は聞き飽きてきたはずなのにその言葉はガンガンと頭に響く。
「だから早よ、俺の女にならんかい。」
乱暴な物言いなのに少しだけ弱々しく感じるのはなぜなんだろう。
そして苦しそうな顔をして私を見る真島さん。
そしてまた約束は破られる。
「…やめて…。」
唯一残された最後の約束。
-キスはしない-
ぐるぐると色んな感情が混ざり合い、私は涙を流す。
どうしてこの男は私の感情を深く揺さぶるのだろうか?
答えは分からない。
でも、触れた唇は暖かく、心地よかった。
そう、あの時、秋山さんに抱き留められた時と同じように。
でも、これは違う。絶対に。
そう思う気持ちを込めて私は真島さんの唇を噛む。口の中に血の味がじんわりと広がる。
そしてじっと私を見る目。
それは悲しそうに自分を見る目。
揺れ動く気持ちをそっと隠しながら私は何事もなかったように立ち上がる。
そう、これは事故のようなものだ。
そっと唇を拭いながら思う。
ふと思い出した。優雅に泳いでいたクラゲが静かに沈んでいたのを。うまく水流に乗れなかったのだろうか?
まるで今の私のようだ。
うまく息ができず、ただ足掻いているだけ。
どちらにも決められず、ただその場に浮かぶだけ。
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