人魚鉢(十七)
里に戻って来て、すぐにヒナタとナルトは木の葉病院送りにされた。
問題ないという二人を問答無用に、サクラは無理矢理引っ張って行った。
残りのメンバーで報告をした後、綱手は彼らにしばしの休暇を告げた。
その通達に皆ほっとした様子だった。
「ふぅ、今回はどちらかというと、心労が大きいですからね」
「というか、僕達は特に何もできなかったような気もするのですが、カカシ先輩」
「そうですね、今回はほぼヒナタのお手柄と言っても過言ではないと思います」
サイが綱手に言うと、隣でシノが頷く。
「ああ、オレもそう思う。なぜなら、泡姫を説得させたのは、ヒナタなのだからな」
シノはちらりとキバを見た。
いつもなら、自分の言葉を遮って会話に入ってくる彼なのに、今回はそれが無かった。
物思いに耽っていて、眉間のしわがどんどん増えていく。
「キバ、何をそんなに悩んでいるんだい」
綱手がキバの表情を厳しい目で見ながら言った。
「あ、いや、オレの勘違いだったらいいんスけど……泡姫の説得から戻ってきたヒナタって、どこか変じゃないか?」
「まぁ、それはオレも感じていた。だが、具体的にどこがとは言えないが……」
豆井戸村に関わった一同の脳裏に、泡姫が最後に残した言葉が引っかかった。
―――ふふふっ、賭けはどうなるかな。
「賭けって、何を掛けたのでしょう。あ、もちろんお金ではないと思いますが」
綱手を見下ろしながら、シズネが首を傾げた。
溜息を吐いて、そんなに賭けに敏感になるなと心に思う綱手だった。
「まぁ、しばらく、ヒナタの周辺に気を配った方がいいかもしれませんね。もしかしたら、泡姫が木の葉に現れるとも限りませんし」
「カカシの言う通りだな。すまないが、休暇返上で、ヒナタの周辺の監視に勤めてくれ」
異論はなかった。
5人の表情に再び緊張が走った。
事件は、まだ続いていた。
ようやくサクラから解放されて、帰宅したのは既に夕刻。
木の葉に戻ってきたのは昼過ぎたというのに、帰りがだいぶ遅くなった。
「ヒナタ様、お帰りなさい!」
コウが屋敷の玄関で出迎えた。
脇に風呂敷包みを抱えていた。
「ただいま」
「お疲れのようですね」
「うん、いろいろあったから…父様とハナビは?」
「お二人とも所用で出掛けておいでです。ところでヒアシ様から贈り物を預かっております」
コウは抱えていた風呂敷包みをヒナタに差し出した。
父からの贈り物と聞いて、ヒナタは心踊った。
父や妹との確執は既に無く、今は時間が重なる日は共に過ごすことが多かった。
長年の家族との思い出を埋めるかのように。
父の優しい気持ちは痛いほど伝わってきている。
だからこそ、彼の思いに応えたいと思い、ヒナタは日々邁進してきた。
包みを開くと、オレンジ色と濃い青紫色の毛糸の玉が現れた。
ヒナタの手がぴくりと反応した。
「任務に出られる前、毛糸が足りないと仰っていたので、ヒアシ様が至急に取り寄せられたのです。しばらくは休暇とか。これで間に合いますね…!」
「………」
ヒナタは無言のまま、風呂敷を畳んだ。
コウの横を通りすぎ、顔を虚ろにして廊下を歩いた。
「ひ、ヒナタ様、なにか気の障ることでも申しましたでしょうか」
「ううん、コウのせいじゃないよ。父様の好意は嬉しいし、毛糸を頂けて本当に助かった。……でも、間に合わないよ…。手作りじゃなくてもいいと思うし、明日、別のものを買いに行くね」
そう言って、ヒナタはさっさと階段を昇り、自分の部屋に入って行ってしまった。
踊り場に取り残されたコウは、逃げるように去ったヒナタの様子を心配した。
(ヒナタ様、どうなされたのでしょうか)
今回の任務が余程疲れたのだろうか。
様々な憶測が彼の脳内で飛び交った。
考えていても仕方がない。
コウは体に良いものをヒナタに食べさせようと、厨房の料理人の所へ行こうと、階段を降りた。
その時、足の裏でぺちゃりと液体を踏んづけてしまった。
「どうして、水がこぼれているんだ?拭いておかないと、他の者が足を滑らせて転んでは大変だ」
懐から手拭いを出して、階段にこぼれている水を丁寧に拭いていく。
それを辿っていくと、玄関まで行きついた。
水を拭いていた手を止めた。
(これは、ヒナタ様の歩いた場所…?)
コウは自分が今辿ってきた廊下をじっと見つめた。
アパートの部屋に戻り、荷物を無造作に放り投げた。
服を乱暴に脱いで、脱衣カゴに入れて、風呂に入る。
シャワーをサーッと浴びながら、ナルトは病院で別れる時のヒナタの表情を思い出していた。
―――じゃあ、ゆっくり休めよ、ヒナタ!
家まで送っていくと申し出たが、ヒナタは頑なに拒んだ。
大丈夫、もう足の痛みもなくなったから、と。
ヒナタが好きだと自覚する以前なら、無理矢理でも送っていくと言っただろう。
しかし、今は彼女が望んでいることを優先させたいと思うようになっていた。
残念だったが、ちゃんと告白して付き合うようになってからの楽しみにとっておこうと、ナルトはその場でヒナタを見送った。
別れ際、ヒナタはナルトに微笑んで「ナルトくんもゆっくり休んでね」と言った。
その時の表情が、なんとも表現しがたいものだった。
まるで感情の籠っていない笑顔。
いつもは優しく包み込んでくれるような暖かな表情をするというのに、その時の彼女の笑顔はまるで作り物の無機質なものだった。
(いや、それは言い過ぎだ。)
シャワーを止め、頭をぶんぶん振って水分を吹き飛ばした。
(例えるなら、そう、キバ達に見せるような……)
惚気かもしれない。
自分に対してだけ、あの暖かい笑みを向けてくれると思っていることは。
しかし、今回ばかりはハッキリわかる。
今のヒナタにとって、ナルトという男は“大切な同期”の1人であるということを。
タオルで頭を拭きながら、冷蔵庫の扉を開く。
中には、買って来たばかりの牛乳パックが入っている。
口を開け、ナルトは一気にそれを飲み干した。
喉から腹にかけて、冷たい液体が駆け抜けた。
それと同時に、背中にも冷たい何かが這った。
シャワーを浴びて、汗は引いたはずなのに、感じの悪い汗が止めどなく溢れ出てくる。
(もしかして、ヒナタ、オレの事なんとも思っていないのか?)
豆井戸村の事件があるまで、ペイン戦でヒナタに告白されたことをすっかり忘れていた。
あの時は、ペインと対峙していたため、自分のことで精いっぱいだった。
戦争の時も、自分だけではなく連合軍を気遣って闘っていたため、彼女ばかりを意識していられなかった。
(オレってば、気が付くのに、遅すぎたのかってばよ!?)
右手に持っていた牛乳パックが悲鳴を上げた。
そして、コロンと床に落とされた。
茫然と立ち尽くすナルトの足元に、ポツリ、またポツリと雫が落ちる。
(情けねぇ……)
1人落ち込むナルトの様子を、九喇嘛は精神世界から見ていた。
ふんと鼻を鳴らすが、それはナルトを嘲笑っているわけではなかった。
ギリッと歯ぎしりし、爪を立てる。
≪早く気が付け、ナルト。そして……≫
その言葉は口から出ることは無かった。
九喇嘛は、ただじっとナルト、そしてヒナタを見守るだけだった。
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