ドラゴン、ペットを外に連れていってみる
「ヴァイツ」
「ヴァイツ」
「ヴァイツ」
あの夜から数日、名前を呼び、雛鳥よろしく着いてくるようになった人間、改めヒムロをちらりと見て、ヴァイツは首を傾げた。
その動きにあわせて首を傾げているヒムロの目には、それまで浮かべていた恐怖の色はない。
時々警戒心がすっぽ抜けていることはあったが、今のように無警戒ということは無かったのに。
不思議だ、とヴァイツは内心でぼやく。いったい、このペットにどんな心境の変化があったのか。
試しにずい、と突然顔を近付けても、少し驚くだけで、むしろそのヴァイツの顔に手を近付ける始末だった。
「綺麗な鱗だな」
近付いてきた手を拒否しなければ、その手はヴァイツの顔に優しく触れてきた。どこか、うっとりとした様子でヴァイツの顔を撫でるヒムロの顔は初めて見る顔だった。
居心地が悪いというか、気味が悪い。然り気無く顔を引けば、残念そうな顔をしたヒムロが手を下げた。
「今日は何を獲ってくるんだ?」
ヴァイツが人の言葉を喋れないと分かっているくせに、ヒムロはヴァイツによく話しかけた。今までは話しかけてきても、どこか独り言めいていたのに、今ではヴァイツに話しかけているのだとよく分かる。
それに対して、ドラゴンの身体であるヴァイツは答える術を持たないし、そもそも答えてやらねばという使命感もなかった。気紛れに唸ったり視線をやったり、尾を緩やかに動かしたりしていたが、それもおそらく返答としては不十分だ。
しかしヒムロは、そんな些細な反応でも良いようだった。ヴァイツの小さな反応をじっと観察するように見て、小さく頷いたり、ぱっと表情を明るくさせたりとせわしなかった。
どうやら、何とかヴァイツの意思を読み取ろうとしているようだ。
それに気付いたヴァイツは、呑気な暇人だ、と思ったが、すぐさま思い至った。
暇なのは当然だ。このペットは、このヴァイツの寝床に来てからこの洞窟をうろちょろするか、飯を食うか、寝るか、湯に浸かるかしかしていない。
人間が自由に出歩こうと気にしないのだが、よくよく考えればここは崖の上の洞窟。外に出ようにも、飛ぶ翼を持たない人間は出れないのだ。あの崖から落ちれば、人間は原形すら留めずぐしゃりと潰れることだろう。
ヴァイツを見上げるヒムロの腹を、緩く尾で巻いてみる。そして、ぺたぺたとその腹や、腕、腿を触れば、ヒムロは擽ったいと小さく笑った。
そんなヒムロの反応など気にもかけず、一通りヒムロの身体に触れたヴァイツは、考える。
触れた身体は、前にも思った通り、元々それなりに鍛えていたようだった。どんな生活をしていたのか知らないし興味はないが、数ヵ月で急激に筋肉が落ちたのだろうと分かる。そして、もう少し食わせて動かしたらそこそこ筋肉は戻るのではないか、とも思う。
今の身体は不健康そうで、いつ病気になるかも分からないので、せめてもう少し健康な身体に戻すか、と決めたヴァイツは、洞窟の出入口へと歩き出す。数歩歩いて後ろを振り返り、ガァ、と一声あげれば、ヒムロはヴァイツをじっと見つめた後、そろそろと近づいてきた。
「……着いてこい、ってことか?」
ゆらり、と尾を揺らせば、遠慮がちだった歩みが途端に早くなる。
ぱたぱたとついてくるヒムロを一瞥し、ヴァイツは洞窟を出て崖の端まで向かった。ヒムロの、先ほどまで軽快だった足取りが見るからに遅くなった。
びゅうびゅうと吹く風は、ヒムロの長い前髪を揺らしている。ゆったりとした朱色の服も、突風によって肌にまとわりついていた。
風の強い高所にいる、という恐怖からか、ヒムロの顔色は悪い。
落ちられても困るので、支えるために尾を近づければ、ヒムロはその尾をぎゅっと掴み腕に抱き込んだ。軽く揺らしても、より強く抱きしめるだけで、離す気はないらしい。
今日は一段と風が強いらしく、ごうごうと耳鳴りすら感じさせる風の中、ヒムロが声を張り上げた。
「今から、狩りに行くのか?!」
ヒムロを見やって、一度瞬きをすれば、「そうか」とヒムロは頷いた。どうやらこれは伝わったらしい。
「じゃあ、行ってらっしゃ……うわっ!!」
崖とは反対に後ずさりつつ、名残惜しげに尾を離したヒムロを、尾でひょいと持ち上げた。そして、背中へと放る。とすん、とヴァイツの広い背に落とされたヒムロは、慌てて背中の鱗を握った。
「た、高っ……ていうか、何のつも、り、ぃいい!!」
少し助走をつけて、崖から身を踊らせれば、背中から間抜けな声がした。
少し落ちた身体は、翼を広げ風を拾うことによって浮き上がる。力強く何度か羽ばたきバランスを取ると、ヴァイツはちらりと背中に目を向けた。
ヒムロは、硬い表情でヴァイツの背中にしがみついていた。下手くそな乗り方だ。
落ちても困るので、ヒムロが落ちないよう、いつもよりゆっくり飛行する。
しばらくすると慣れてきたのか、銀の鱗を握りしめたままとはいえ、ヒムロはそっと下を覗きこんだ。その動きに再びヴァイツが目を背中にやれば、ヒムロは呆けた顔をしていた。
「飛んでる……」
そう当たり前のことを言うヒムロは、先程身を縮こませて怯えていたにも関わらず、ヴァイツの背中の真ん中から、首の方へとそろそろと移動を始めた。
背中の真ん中は広いので、ヴァイツが宙返りをしたり急降下をしたりしない限り、軽くしがみついてさえいれば、落ちることはないだろう。意識のないヒムロを乗せて飛んだ実績もある。
しかし、さすがに首の方は背中よりも細く、従って誰かを乗せるには些か不安定な場所だった。
落ちては困る、と視線だけでなく顔ごと振り向けば、ヒムロがぎゅうとヴァイツの首にしがみつくのと同時だった。
「これが、ヴァイツが見てる景色……すごく、綺麗だ。この世界って、こんなに綺麗だったのか」
長い前髪の間から覗く黒い目が見るのは、下方に広がる青々とした森や、前方から彼方まで続くのではと思えるほど広大な大地。ヴァイツの日常の風景は、ヒムロの何か琴線に触れたようだ。
目を潤ませるヒムロにももう慣れてきたヴァイツは、無言で顔を前に向けた。首にしがみついているものの、軽くヴァイツが首を振ればすぐにでも振り払われてしまうだろう。頼りない力に、人間だから、と半ば諦めの気持ちを抱いたヴァイツは、先程よりもバランスを取ることに集中した。
下方に目当てのものを見つけたヴァイツは、グルル、と一度声をあげると徐々にその高度を下げ始めた。飲み込みが早いのか、ヴァイツの首に手を添えるだけでヴァイツの背に乗っていたヒムロは、さすがに拙いと思ったのか慌てて首にしがみついた。
予想よりもヴァイツに乗るのが上手くなっていたヒムロにヴァイツも気づいていたからこそ、ヴァイツは遠慮なくその身を下方へ下げていった。
広い草原には、角獣が群れをなし呑気に草を頬張っていた。小さな個体も見受けられることから、繁殖の時期であることが伺える。
群れの中から、中くらいの大きさの一頭に目星をつけ、その群れの遥か上空をゆったりと旋回する。そして、ヒムロに向かって小さく唸り、下を見るよう促した。
「群れ……あれを狩るのか?」
ヴァイツの目をじっと見て、「狩るのか」と確信を得たように呟いたヒムロは、ヴァイツの首に腕を回し抱きつくようにしがみついた。
「振り落とされないようにしとけ、って言いたいんだろ」
にやり、と笑うヒムロを一瞥し、ヴァイツは獲物に視線を戻した。下降のスピードを上げる。ふと顔をあげた一匹が警戒の声を発したが、その時にはもう、哀れな獲物はヴァイツの鋭い鉤爪によって首を押さえつけられ、地面に引き倒されていた。
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ドラゴンのペット
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2016.10.31〜