甘い果実はいかが
ぱたぱたと、侍女たちが小走りで廊下を横切っていくのを見て、シャルティーダは読んでいた本を閉じてテーブルに置き、立ち上がった。
侍女たちを追えば、玄関ホールへとたどり着く。ドアのそばには、この屋敷で長年過ごしている老執事が既に立っていた。
シャルティーダの予想通り、どうやらこの屋敷の主が帰宅したようだ。
大きな扉が、開かれる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「……ああ」
小さく頷く大柄な男に、シャルティーダも近づき声をかける。
「……おかえり」
「シャルティーダ様……只今帰りました」
ふ、と僅かにだが、ガリオスの口角が上がるのを見て、むずむずとした奇妙な感覚が沸いてきて、シャルティーダは途方に暮れた。
毎日、彼が帰宅するのを出迎えている。そして、毎日、その些細な表情の変化を見て、戸惑いを覚えるのだ。
ガリオスは、脱いだコートと小さな籠を執事に手渡し、シャルティーダにその大きな手を伸ばした。
「本でも読んでいましたか?」
「ああ。よく分かったな」
「昼間に、ルドガー殿下がお見えになったようですからな。昨日の時点であの本は読み終えていないようでしたから、ならば読むとすると今の時間かと」
「なるほど」
シャルティーダの手を取り、ガリオスは歩き出す。エスコートするようなその行動に、シャルティーダは数日経った今では慣れてきていた。
シャルティーダが王族であり尊い身の上だからか、ガリオスはシャルティーダと歩くとき、必ず手を引いた。段差がある場所や階段に差し掛かると「お気をつけて」と低い声で告げるのは聞き慣れたものだ。
最初は貴婦人扱いのようで微妙な心境だったが、今ではむしろ介護されているような気にもなって、それはそれで複雑だった。
「シャルティーダ様は、葡萄はお好きですか?」
葡萄、と鸚鵡返しに呟くシャルティーダを、ガリオスはじっと見ている。
「……ああ、好きだ」
「それは良かった。実は部下から一房貰いまして。食後に食べましょう」
鋭い眼光を仄かに和らげるガリオスに、シャルティーダは今日何度目かも分からない、もやもや、むずむず、というような奇妙な感覚を覚えた。
共に住んでまだ数日しか経たないが、ガリオスが見目や、伝え聞く戦場での苛烈さに反して、とても優しい男であるとシャルティーダは思う。
しかし、その優しさの中には、シャルティーダが王子であるという前提が少からず含まれているはずだ。
それを思うと、無性に胸を掻き毟りたくなる衝動にかられる。しかしその衝動の理由は分からない。
いや、考えないようにしている、という方が正しいかもしれない。
「シャルティーダ様?ご気分でも優れませんか?」
シャルティーダの身長は高い方だが、それでもガリオスの方が幾分か高い。俯き加減だったシャルティーダと視線を合わせるように、少し身を屈めたガリオスは、シャルティーダの顔を覗き込んだ。
これまで見上げていた厳めしい顔が、至近距離の少し視線を落とした先にあって、シャルティーダは驚き目を見開いた。
あまり表情は変わらないが、心配してくれているのだとは分かって、シャルティーダは数度瞬きをした後、ぎこちなく首を横に振った。
「いや、少しぼうっとしていてな。ここ数日は、持ち出しても構わない簡単な仕事ばかりだったから、どうしてもぼんやりしてしまう時間が多いんだ。それを今も引きずってしまったみたいだ」
苦笑とともに告げた言葉は言い訳だが、あながち嘘でもない。
実際、この屋敷に移ってからの仕事は簡単なものばかりですぐに終わってしまうものが多かった。ようは、暇を持て余しているのだ。
ガリオスが用意した本を読むことで潰れる時間もあるが、ずっと読んでいるのは苦痛でもあった。
何もすることがない、ということが、シャルティーダは一番嫌いだった。
誰からも必要とされていない、と。そんなことはないと分かっていても、どうしたって考えてしまうからだ。
その時、自分がどのような顔をしていたのか、シャルティーダは分からない。だが、彼の顔を覗き込んでいた傷だらけの顔の男の赤銅色の隻眼が、はっと見開かれたことで、あまり芳しくない顔をしてしまったのだ、というのは分かった。
何かを言おうと、ガリオスが口を開きかけたが、シャルティーダはそれに被せるように言う。
「いつまでも、屋敷にこもって仕事をするわけにもいかないしな。明日から俺も城に出向くことにするぞ」
「……そう、ですか」
どこか歯切れの悪いガリオスが、今何を考えているのか、シャルティーダは全く見当もつかない。少しばかり不機嫌になったようにも感じて、気まずい気持ちを抱きつつも、それは表には出さずにシャルティーダはガリオスの手を軽く引いた。
「まあ、まずは食事にしないか」
シャルティーダをじっと見つめていた隻眼が細められ、「ええ、そうですね」と低い声が落ちる。そうして、再びシャルティーダの手を引いて、ガリオスは歩き出した。
そのエスコートは先ほどと変わらず優しく紳士的だ。
本当は、違う相手にこうして優しくしたいだろうに。
ガリオスから見えないように、シャルティーダは苦く笑った。
「シャルティーダ様」
食事を取り、湯浴みを終え自室に戻ってすぐに、ドアをノックする音と共に、重低音の声が聞こえてきた。
今夜は何をしようかと考えていたところだったので、用事ができたことに自然と笑みが浮かび、シャルティーダはドアへと言葉を投げかける。
「どうした?」
「先ほどもお話ししましたが、葡萄が一房あります。よろしければ、今から食べませんか」
「ああ、良いな。食べよう」
ドアを開ければ、どうやらガリオスも湯浴みを終えたようで、王城に出向くような堅苦しい騎士服ではなく、薄いシャツとズボンの姿で立っていた。
その服は、彼の身体の逞しさを強調していて、シャルティーダは憧憬の眼差しを向けた。
シャルティーダは武術の才能は全くないが、健康の為に体を鍛えているし、両親の血をきちんと受け継いだのか、そこそこ筋肉はある。しかし、ガリオスのような軍人の身体には遠く及ばない。
自分ではけして手に入れられない逞しく強靱な肉体を持つガリオスが、シャルティーダは羨ましかった。
「……シャルティーダ様?」
「あ、ああ、悪いな。それで、どこで食べるんだ?」
「客間に用意させております」
「そうか。……葡萄は、好きだ」
頬を緩めるシャルティーダの手を、ガリオスは優しく掴んだ。客間へと向かうガリオスにシャルティーダは大人しくついて行った。
ベルベットの如く艶やかな光沢を抱く紫の一粒を、シャルティーダはそっとつまみ上げた。
それを口に運ぶわけでもなく、しげしげと見つめるシャルティーダを、ガリオスはじっと見つめていた。
「お食べにならないのですか?」
「ん?ああ、いや、食べる。ただ、綺麗で美味しそうな葡萄だと思ってな。少し食べるのが勿体ない」
少し笑ってそう言ったシャルティーダは、そっとその皮を剥き始めた。外の色とは異なるエメラルドの果肉が現れ、透明な汁がつうとシャルティーダの白い指を伝って流れた。受け皿にしていた皿の上に、ぽたり、と果汁は流れ落ちる。
紫の服を脱がされた柔らかなそれを、シャルティーダはゆっくりと口へと持って行く。
ぱくり、と。口の中へと放り込めば、甘い味が口内を満たした。数度噛みしめ、飲み込む。
甘い果実が喉を通れば、その甘さが喉を焼くような心持ちを覚えた。指を滴る果汁をぺろりと舐めて、シャルティーダは満足そうに目を細めた。
「美味い」
自然に漏れ出た言葉は、しんと静かな部屋にひっそりと、しかし、はっきりと響く。
何も言わずに見つめる赤銅色に、シャルティーダは、あ、と舐めた指を見た。
行儀が悪かったな、とばつが悪くなってテーブルに置かれていた布巾を取り、拭いた。
「つい、美味くてな。悪かった、見苦しいところ、を」
シャルティーダの謝罪は中途半端に途切れた。
傷だらけの大きな手が伸ばされたからだ。
椅子から少し身を起こしたガリオスの手は、明確な意志を持ってシャルティーダへと伸びていた。
大きな手のひらは、シャルティーダの頬を容易に包んだ。するりと頬を撫でるように僅かに動き、そして、親指が、動く。
親指の腹が、シャルティーダの唇を優しく撫でた。
指の腹にも傷があるのか、とシャルティーダが場違いな感想を抱いたのは、突然の動きに頭がついて行っていないからだろう。
「甘そうな、葡萄の汁が」
大きな手が離れていく。
傷のある親指を舐める舌が、妙に赤く見える。
「確かに、美味い葡萄です」
赤銅の隻眼を眇める男を前に、シャルティーダは呼吸を忘れていた。
「部下には礼を言わねばなりませんな。ああ、お気に召したのであれば、全てシャルティーダ様が食べてしまっても構いません。私はあまり甘いものは好かないので……今ので十分です」
葡萄の入った皿を目の前にしばらく無言だったシャルティーダは、ぐ、と口元を引き結んだ後にすぐさま大きくため息をついて、どさりと椅子の背もたれに深々と背を預けた。
勘弁してくれ、と内心で呟くシャルティーダには、鬼将軍と名高い男の隻眼の視線が絶えず注がれていた。
prev next
[10]
空の王子と鬼将軍
Back
2016.10.18〜2017.2.7