色んな意味で凄い奴



「哲人、飯食いに行こう」
「……おー」
「哲人?」

 ふと顔を上げた視線の先に映った壁掛け時計の時間を見て、柳瀬は対面のソファに座る谷萩にそう声をかけた。
 それまで、重ねた手を枕にしてぼんやりとしていた谷萩が、どこか気の抜けたような返事とも言えない声を発したことに、柳瀬は怪訝に思い再度名を呼んだ。
 しかし、その呼び掛けに対して反応はない。谷萩は、じっと天井を見上げているだけだ。
 柳瀬はそれまで開いていた本を閉じ、目の前のテーブルに置いて立ち上がった。
 そして、谷萩の側に近寄り、その顔を真上から見下ろした。それまで天井を見ていただろう谷萩は、視界に柳瀬が映り込んだことにぱちくりと目を瞬かせた。

「ハル?」
「聞いてたか?」
「あ?なにが?」
「飯」
「もうこんな時間か!そういや、すげー腹減ったわ」

 それまで、どこか心ここにあらずな状態だったにも関わらず、ころっと表情を変えた谷萩はソファからいそいそと起き上る。
 その広い背をじろじろと見た柳瀬は、少し躊躇った後、口を開いた。

「で、どうした?」
「あ?」
「おまえが考え事って珍しいだろ」
「あー。なんつーか……」

 テーブルに置いてあった財布とスマートフォンを手に取りながら、振り返った谷萩は珍しく口ごもる。しかしそれは言葉を濁す、というよりは、どう話して良いか分からない、というような感じだ。
 鋭い目が彷徨い、それはまるで、親に向かって何かを必死になって説明しようと頭を働かせる幼い子供のようだった。であれば、さしずめ自分が親か、と柳瀬は肩を竦める。

「なんつーか、アレだ」

 部屋の玄関に二人で向かいながら、谷萩は自分の金髪をくしゃくしゃと掻いた。それを何となく見ていた柳瀬は、その金色の根元が黒くなってきているのに気付いた。

「おまえ、そろそろプリンになるんじゃないか?」
「げっ。マジかよ。そろそろ染め直すわ。手伝え」
「ああ」

 谷萩が髪を染め始めてから、毎回手伝わされている柳瀬は頷く。それを当然のように受け止めた谷萩だったが、「ちげーよ、そうじゃねぇって」と呟いた。

「ほら、あれだ。流のことなんだけどよ」

 ここ最近で聞き慣れた生徒会長の下の名前に、柳瀬は僅かに眉を潜めた。
 基本的に、谷萩が笹野の話をするのは、夜の寝る前だ。食事を終え、風呂にも入り、テレビを見ながら映ったタレントや女優の顔や体を評価したり、お笑い番組を見て腹を抱えて笑ったり、馬鹿話で盛り上がる。そんな時間の隙間に、谷萩は笹野の話をする。
 裏を返せば、それ以外の時間に谷萩が笹野の話をすることはほぼ無いと言っても良い。それは谷萩本人が何らかの制限をかけている、わけではなく、単に日中はその話題をスコンと忘れているだけなのだ。
 谷萩は、ゆったりとした時間に一日を振り返り、見たまま、思ったまま、感じたままを喋っているだけに過ぎない。
 だからこそ、夕食前に、笹野の話題を口にするのは珍しかった。

「……俺、あいつのこと好きなんかな」

 その言葉に、俯きかけていた顔をあげて、柳瀬は目を見開いた。前を歩き、玄関のドアノブに手をかけていた谷萩が、柳瀬を振り返っていた。
 じっと、柳瀬を見つめる目は真剣で、しかしどこか揺らいでいた。

 柳瀬には、はっきりと分かる。ここで「勘違いだろう」と言えば、谷萩は首を捻りながらも「だよなあ」と頷くだろう。

 がちゃり、と谷萩は柳瀬を振り返ったまま、扉を開けた。それが、谷萩らしいと思えた。

 柳瀬は一度溜め息をつく。呆れたように、面倒くさそうに、気だるげに。
 それから、自分の靴を履くと谷萩の身体をぐい、と押しのけた。ドアノブから谷萩の手が離れたことで、僅かに開いていたドアが再び閉まりそうになる。
 柳瀬はそのドアを手のひらで押さえ、そのまま、押した。

 谷萩を追い越しドアをくぐった柳瀬は振り返り、「馬鹿野郎」と罵った。

「何でもかんでも、俺に聞くな。もっと馬鹿になるぞ」

 中学生一年生の夏の終わり。谷萩に好きな女の子が出来たことを知ったのは、谷萩が自ら柳瀬に告げたからだった。
 そこに、柳瀬の介入は一切無かった。

「誰が馬鹿だ、誰がっ」

 廊下を歩き始めた柳瀬に、谷萩が足早に追いつき吠えたてる。背後でドアが閉まり、施錠される音がすると、この寮は戸締りが楽だとつくづく思う。

「大体、おまえは俺のこと馬鹿にし過ぎだっての!俺だってなあ、」
「おまえ、今日は何食べるんだ?」
「んあ?あー……肉食いてぇ、肉」

 他の話題を振られればすぐさまそちらに気を移す谷萩に、柳瀬は目を伏せ小さく笑う。昔から、谷萩は変わらない。
 谷萩はこれからの食事に思いを馳せたのだろう、すん、と一度鼻を鳴らした。そして、首を傾げる。

「なあ、ハル。おまえ、また煙草吸ったか?」
「ああ。……それがどうした?」

 谷萩がわざわざ聞いてきたことを、柳瀬は不思議に思った。柳瀬が煙草を吸うことなど、谷萩にとっても当たり前のことなのだ。

「……おまえ、前より吸うようになったよな」

 それは、疑問ではなく断定の言葉だった。

「そうか?」

 指摘され、柳瀬は改めて振り返る。そして、確かに増えたかもしれない、と内心で認めた。消費する本数が、以前よりも格段に増えていた。
 今日の昼も、結局あの屋上から出てから一時間ほど授業をサボって煙草を吸っていたのだ。そのせいで、今日持っていた箱は空だった。

「なんかあったか」
「いや、別に」
「ふーん」

 谷萩はちら、と意味ありげな目線を柳瀬に向けたが、それ以上何かを言うことも、問い質すこともしなかった。興味がないと言うわけではないが、無理やりに聞くことでも無いと思ったのかもしれない。
 柳瀬も柳瀬で、問い質されても上手く説明できないと思ったので、それ以上聞かれないことに安堵した。

「決めた。カツ丼にするわ」

 辿り着いた食堂の前で、谷萩が宣言する。

「ああ、でも」
「どうした?」
「そういや、俺、焼きそば食いてぇんだった。明日な」
「食えば良いだろ」
「おう。だから、明日の夜は焼きそば作れ」
「は?」
「おまえの、親父が日曜に偶に作るような味のやつ」
「ああ……」

 褒めているのか貶しているのか分からないどころか、そもそも味の甲乙の評価ですらないが、きっと谷萩は貶しているわけではない。しかし、それでも複雑な気分になって柳瀬の眉間に皺が寄る。

「流の飯は美味いけど、焼きそばはハルが作ったもんの方が美味い」
「……おい、それもしかして笹野に言ったか」
「おう。流の焼きそばも美味かったんだけどよー、ハルの味付けの方が濃くて好きだわ」
「……」
「だから、明日はおまえの焼きそばな」

 そう言って、堂々と食堂の中へ入って行く谷萩の背を柳瀬はつい立ち止まり見送ってしまった。
 谷萩の事だから、先程言った感想をそのまま笹野に伝えてしまっているのだろう。
 話を聞くに、笹野の料理レベルは非常に高い。
 そんな男の焼きそばよりも、生麺3袋入りの焼きそばにありあわせの野菜と醤油やソース、胡椒その他をその日の気分で適当にパパッと入れたものの方が美味いと、谷萩は言うのか。
 阿呆である。馬鹿である。

「ハル、早くしろ!」

 立ち止まっていた柳瀬を、谷萩が苛立ったように呼ぶ。空腹で気が立っているらしい。
 柳瀬は止まっていた足を動かし、食堂へと入った。

「……おまえ、凄いな」

 柳瀬の呟きは、食堂のざわめきによってかき消された。

 空気が読めない馬鹿に、育ててもいないのに育て方が悪かったのか、と柳瀬が一瞬悩んでしまったのは秘密である。
 そして、ほんの少しだけ、口角が上がってしまったのも、柳瀬だけの秘密だ。



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2017.06.25〜