▼ トリコさんお願いします!
人々の興味の全てが“食”に捧げられている――そんな時代に生まれ落ちた私は、それがさも当然のことだと思っていた。
そりゃあ味覚を持つ生物として生まれてきたからには、食べることに否定的になるわけもない。
その上、テレビに雑誌、インターネット、電話口から聞こえてくる声さえも、全て“食”の情報に埋め尽くされているのだ。
目に入るもの、耳に入るもの……全てが、食!食!食!
所詮“食”以外のカテゴリなど、何かもかもがマイナーに過ぎない、というのが今の世論である。
しかし、それは一種の狂気を呼び込むこともある。
競争するカテゴリが“食”しかないというのは、あまりにも偏り過ぎていた。
――現に私が働いている出版社なんかのメディアが良い例となっている。
みんな他社の報道に負けまいと、新しい食や、伝説の食材、料理人、美食屋の取材に血眼だ。
その報道体制は過熱の一歩を辿っており、取材中の事故件数も増え続けている。
危険地域の無断立ち入り。
獰猛な“食材”への接触。
美食屋相手に無謀な密着取材。
カメラとペンとメモ帳片手に、一般人に過ぎない人間が命は張るのだ。
テレビ局に至っては、あまりの惨劇が映ってしまったとなると、そのテープがお蔵入りなんてこともざらにある。
実際は知らないが――あの有名キャスターのティナさんもよく『結局使えない映像になっちゃうのよ』とぼやいているらしい。
ただ、ほぼ無傷で生き残っているというだけ、あの人は強運なのだろう。
そう、強運なのだ。
「……労災、降りるかな」
しかし今現在、こんなことを呟く私は、決して強運ではない。
フシュルルル、なんて謎の鳴き声を発する獣を目の前にして半泣き状態だ。
私はこの獣を知っている。
確か、リーガル島に生息している捕獲レベル28の哺乳獣類“オブサウルス”だ。
それがどうしてこんな所に生息しているのか、まったく解らない。
解らない上に、生きて帰れるかすらも解らない。労災どころではないかもしれない。
……ちくしょう!
なんでトリコの取材に私一人で来なきゃいけなかったんだ。
有名な美食屋に限って変な所に住んでるっていうのは、業界人にとっては一般常識なのに!
何が、『四天王の中でもトリコの家はアクセスがかなり易しいから大丈夫』……だ!
編集部の嘘つき!
これなら四天王サニーの方がよっぽどマシだっつーの!
――そんな諸々の事情を心の中で呪いながら、私はとにかく今の現状から逃げ出すことを必死で考える。
しかしこんなデカイ上に厳つい生物を目の前にして、冷静な判断も出来るわけがない。
とくかく私は、オブサウルスにくるりと背を向けて走り出した。
しかしその瞬間。
腰にヌチャッとした湿っぽいものが巻き付き、あっという間に身動きが取れなくなる。
振り返ると、オブサウルスの口から伸びた舌が私をがっちり掴んでいた。
「ひぃ……っ」
私は短い悲鳴を上げる。
オブサウルスは、そんな私を尻目に、その二つに裂けた舌先でベロンベロンと顔を舐めてきた。
あぁぁあ生っぽい。
ぬるぬるする。
なにこれ、味見?
私は恐怖で身動きが出来ない。ただただ顔を青くして震えるだけが精いっぱいだ。
しかも大きく肉厚的な舌で執拗なまでに顔を舐めてくるものだから、呼吸も上手く出来ない。
あと、もう少しで完全にダウンしてしまうだろう。
あぁ、でもいっそ食べられるなら痛くないほうがいいし、気絶してようか……。
どんどん白く遠くなる意識の中で、そんなことを思っていると――、
「おい、オブサウルス、どうしたー?」
なんていう、やたら緊張感のない声が聞こえてきた。
それを引き金に、オブサウルスは私の拘束を解く。
「……うえっ!」
ベチャリという音を出しながら、オブサウルスの体液と共に私の体は地面に崩れ落ちた。
「何やってんだ、お前」
相変わらず緊張感のない男性の声が、頭を伏せた私の真上から降ってくる。
訳が解らないまま、私は顔を上げた。
するとそこには、まるで快晴の日の海原みたいな色をした髪の男が一人。
まるで汚いものを見るような目で、私を見下ろしていた。
ウゲーッ、と言葉には出さないが、その目は確実に「こいつベトベトじゃねぇか、ウゲーッ」と物語っている。
――いや、それよりも。
私はこの男を知っている。
知らないわけがない。
第一、今日の目的なのだ。
「しゅ、取材で来たんですが……」
弱弱しい声を吐き出しながら、私は彼に話しかけた。
そう。
この目の前の彼こそが、若手の中で有名な美食屋――トリコだ。
しかしトリコは私の話を聞いているのかいないのか、伸びてくるオブサウルスの舌を拒否するのに必死なようだ。
妙に嬉しそうなオブサウルスと、相変わらずウゲーッという顔をしたトリコの様子を私はただただポカンと見つめた。
しばらくしてオブサウルスが大人しくなった頃、ようやくトリコは地に伏せたままの私に目を向ける。
「取材って……お前一人でか?」
「えっ。はい、まぁ」
「俺に取材しても、今は何にも新しい話はねぇぞ?……しっかし酷いな」
そう言いながらトリコは涎溜まりに沈む私を、摘まむようにして引き上げた。
やっぱりその顔はウゲーッというものを含んでいた。
「あ、新しい話題でなくもいいんです。ただ、今みなさんトリコさんの記事を期待してますから……き、きちんと、IGOには許可いただいてます……」
あぁ、ヌルヌルしながら喋るレポーターなんて見たことも聞いたこともない。
そりゃあトリコもウゲーッって顔をするし、空気も緩みっぱなしだ。
「まぁ、それなら好きすればいいけどな」
「ありがとございます……あ、あの早速なんですけど――」
私はベットベトのメモ帳とペンを取り出した。
音声記録用のボイスレコーダーはすでに水没してしまって、使い物にならないからだ。
私はその原因を恨みがましく見つめなら、言葉を紡ぐ。
「あれ、なんですか?」
――もちろん、それはオブサウルスのことであった。
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