▼ 小さな君と5
「コォしゃん」
幼くか細い声が、ココの膝元から聞こえる。
沸きたつ鍋に向けていたその視線を、声の持ち主に向けると、そこにはへにゃりと眉を下げた彼女がペタリとココの膝に張り付いていた。
「どうしたの? 今、火を使っているから危ないよ」
ココは一度鍋の火を止めて、できるだけ優しいトーンで尋ねた。
すると幼い彼女は顔をくしゃりと歪めると、うー、と唸るような声を絞り出し、グリグリとココの膝に額を擦りつけてくる。
あまりにも力強いそれは、摩擦熱を発する。
「そんなにしたら、後で痛くなるよ」
ココがそう言って制止すると、彼女はガバッと顔を上げて、今度は両手を突きだしてきた。
「んー!」
すれた額を赤くし、ココに両手を突きだしてジタバタしはじめる。
顔はまだ不機嫌そうに歪められたままだ。
「……抱っこ?」
「ん! んー!」
ココの返答は当たりだったのだろう。
彼女はココの足にピョンッと飛び付くと、そのまま上ろうとし始めた。
しかし、すぐに後ろ向きにひっくり返りそうになる。
そんな彼女の小さな体を、慌ててキャッチし、ココは彼女を腕に抱いた。
すると彼女は途端に大人しくなり、ココにぴったりしがみ付いて離れない。
ココが彼女の名前を呼んでも、しがみ付く手の力を強めるだけである。
実は、今朝から彼女はずっとこの調子だった。
不機嫌そうに顔をクシャッと歪めてグズッては、ココやキッスにべったりとくっつく。
そして静かに泣きはじめるのだ。
現に今も、ココの肩口に顔を埋めてスンスンと鼻を鳴らし始めている。
――彼女が小さくなって、今日で4日目。
恐らく、もうすぐにでも元に戻るだろう。
だがそれより先に、この幼い彼女の不安がピークに達してしまった。
当然といえば当然のことだ。
むしろ、今まで聞きわけが良すぎたのかもしれない。
ココの腕の中でしくしく泣いている彼女は、消え入りそうな声で家族の名前を唱えている。
ココはそんな彼女の背中をただポンポンと撫でた。
「大丈夫」
しばらく宥め続けていると、彼女は少し落ち着いたのかふいに顔を上げる。
「コォしゃん」
ぼぉっとした表情でココを見るめる瞳は涙で濡れ、瞬きをする度、まつ毛についた滴が跳ねる。
そして、赤くなった鼻先からは、ずるずると鼻水を出していた。
「ずいぶん、泣いてしまったね」
ココは急いでキッチンの棚からナプキンを取り出して、彼女の顔を優しく拭いていく。
「鼻もかんで」
「かむ?」
「……チーンってやってごらん」
ココの言われた通りにした彼女は、勢いよく鼻をかむ。
「そう、上手」
「……あい」
「えらいね」
彼女は顔も気持ちも少しスッキリしたのか、ようやくいつもの表情に戻る。
そして目をパチクリとさせ、ココを黙って見つめた。
幼い彼女の癖なのか、それとも子ども独特のものなのかは解らないが……時折、こうやって無言で何かを見つめるのだ。
それは家具であったり、花や虫であったり、草や空であったり、様々だ。
ココはその視線を向けられたことに一瞬戸惑い、そして誤魔化すように苦笑いを浮かべて、彼女に話しかけた。
「お腹、すいてない?」
その言葉に、彼女はピクンと反応する。
そしてお腹を両手で押さえるような仕草をとり、コクコクと頷いた。
どこか、彼女からは期待の色が見える。
コロコロ変わる彼女の表情に、ココはついホッと安堵の息をつく。
「じゃあ、おやつにしよう」
ココがそう言うと、彼女はワッ、と可愛らしい声を上げた。
――その日のおやつは、彼女の願いで外で取ることになった。
幸い外は晴天。
心地よい緩やかな風が吹く、絶好の天候だった。
そんな中、彼女は嬉しそうにクッキーを頬張り、ミルクをコクコクと飲み干す。
あっという間に数枚のクッキーだけを残し、それらは姿を消した。
「きっしゅ!」
そして彼女は、その残ったクッキーを落とさないように両手で握り締めると、ターッとキッスの元へと駆け出して行ってしまった。
多分、キッスにもクッキーを持っていったのだろう。
すっかり元気を取り戻しつつある彼女の後ろ姿を見つめながら、ココは僅かに溜息を零す。
「……僕も、トリコばかり責められないな」
――思えばいくら彼女と言えど、今は幼子。両親が恋しく無いわけがない。
何も解らず、知る人もいない場所に居て、寂しくないわけがない。
冷静に考えれば、すぐに思い当たることだった。
幼いのなら尚更――。
「……いや、違うか」
ココは小さくそう呟いて、再び彼女に視線を向け直した。
彼女はキッスのそばで、草地に生える小さな花を揺らして大人しく遊んでいる。
その場に流れる穏やかで透明な空気に、ココはどこか懐かしさを感じた。
そう、幼いからじゃない。
たとえ大人であったとしても、彼女は寂しさを抱えていて当然だった。
じわり、とココの胸に重苦しい感情が染み出してくる。
その感情の名前は浮かばないが、なんだか自分が持っていけないもののような気がした。
「コォしゃん……?」
――ふと、思い耽るココの耳に、柔らかな音が落ちる。
慌てて顔を上げると、思ったよりも近くに彼女の姿があった。
先程遊んでいた花を両手で持ちながら、心配そうな目でココを見つめている。
「いたい?」
「……え?」
ココはドキリとした。
そこまで感情が顔に出ていたのだろうか、と思うと気恥ずかしくなる。
「いたい?」
「いや、大丈夫だよ。どこも痛くない」
「ほんと?」
彼女はココに近づくと、顔を覗き込んできた。
「僕は本当になんともないよ。……それよりもう少し遊んでおいで。ほら、キッスも待ってる」
どこか気まずくて仕方がないココは、出来る限り優しい笑顔を作で彼女にそう告げる。
だけども彼女はじっとココを見つめたまま動かない。
彼女の柔らかい髪と小さな花だけが、そよそよと風に揺れた。
彼女はおもむろに、背伸びをする。
そしてそのまま、ココの額に顔を寄せた。
――ちゅっ。
そんな可愛いリップ音。
彼女はココの額に小さな口づけを落としたのだ。
「……!」
ココはつい言葉を失くす。
そして額に口をつけたまま動かない彼女を、慌てて引き剥がした。
しかし当の本人は、何度も瞬きを繰り返しながらココの顔を見つめ続けるばかり。
引き剥がされたことで自分の足がプラプラと宙に浮いていることさえ気にしていない。
しばし呆然としていたココは、ハッとし、彼女を一度降ろすと、そのまま注意しようと口を開いた。
だけど、それよりも先に彼女が言葉を紡ぐ。
「コォしゃん、すき」
「え」
「だから、コォしゃんもあそぼうね。いっしょに、あそぼう!」
彼女は大きな声でそう言うと、手に持っていた花をココの頭の上にせっせっと置き始めた。
彼女の突然の言葉と、不思議な行動に、ココはなんと言葉を発せばいいのかよく解らなくなる。
ただ、花の香りと、ミルクの香りがココの鼻をかすめた。
花を置き終え、満足そうな彼女が、再びココを見つめる。
「きっしゅも、あそぶ。コォしゃんもあそぶ。だから、だから」
彼女の小さな手が、ココの手の甲をポンポンとリズムよく叩く。
それは――先程、ココが彼女にしたような手つきとそっくりで。
ココは、彼女が自分を慰めようとしているのだと気が付いた。
驚くココに彼女は、綻ぶような笑顔を向ける。
「しゃみしいの、ないない」
* * * * * * *
「ああ、寝ちゃったんだね」
散らかった庭を片付け終わったココが、キッスに埋もれる彼女を覗き込む。
すると彼女はすっかり寝落ちしていて、小さな寝息を立てていた。
「疲れたんだね」
ココがそう言うと、キッスが小さく喉を鳴らして答える。
――あの後、ココはキッスと共に彼女の体力の限界がくるまで、彼女の遊びに付き合うことになった。
この小さな庭を、鈴が転がるがごとく走り回った彼女。
疲れてしまったのか、キッスにもたれかかると一瞬のうちに眠りについてしまったのである。
ココはキッスの羽毛の中で眠る彼女を起さないように、そっと抱き上げた。
「……うぅ」
彼女は小さな唸り声を上げたが、ココが背中をポンポンすると再び眠りの世界へと落ちて行く。
ココはふと、彼女にも先程同じことをされたことを思い出した。
情けなさと、暖かさが混ざり合って、容赦なく心を責めて立てる。
日が傾き、すっかり夕暮れ色に染まった空が、余計そんな気持ちに拍車をかけた。
なんだか堪らない気分になって、苦笑いが零れる。
「こぉ……しゃ……」
小さな彼女がココの腕の中で寝返りを打って、ふにふにと唇を動かす。
ふっくらした頬が、夕陽に照らされて真っ赤なリンゴのよう。
ココは、彼女が初めて小さくなった時の日のことを思い出した。
――きっと、明日には彼女は元に戻っているだろう。
そして小さくなったこの記憶は忘れているだろう。
それでも、きっと
「君は変わらないね」
ココはそう呟きながら、すやすや眠る彼女を抱いたまま家への中へと向かった。
ただ、僕が出来るのは変わらぬ彼女を迎えるだけ。
決して、君が寂しくないよう。
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