toriko夢 | ナノ

 彼女のヒーロー


彼女には忘れられない記憶がある。

それは、彼女が子どもの頃。

雪が降る、寒い寒い冬の夜のことだった。




――IGO非加盟の国、グルメ犯罪が多発するジダル王国の郊外を一人の少女が必死で走っていた。

歳の頃は8〜9歳前後だろうか。
名前をワカメといった。

彼女は裸足で、薄いワンピース一枚着ただけの頼りない姿だった。

そんな彼女が息を上げて駆ける薄暗い裏路地は、宛のない絶望への道そのもの。

「待て、このガキ!」

彼女の後ろには、複数の男たちが迫っていた。

下卑た笑いが含まれたその声は、幼い少女にとって恐怖でしかない。

しかし、所詮大人と子ども。

あっと言う間に捕まってしまったワカメは、そのまま片腕を捕まれて乱暴に持ち上げられる。

痛みに小さくか細い悲鳴を上げたが、男たちには何の意味もなかった。

「あー、こいつやっぱり競売から逃げてきたっぽいぜ」

「だなぁ。ほらこの服の胸にプレートがついてやがる」

ワカメの安っぽいサテン生地のワンピースについていた、一枚のアルミプレートを、男の一人が引きちぎった。

その粗暴な行動は、彼女のワンピースの一部を引き裂く。

「良い値じゃねぇか」

「変態の慰み者か、麻薬食材の実験台か。まぁ、哀れなこったな」

「ちげぇねぇ」

「なぁ、嬢ちゃん。俺たちと一緒に来な。落札されるよりずぅっと天国だぜ?」

鳥肌が立ちそうな程の猫撫で声を出しながら男が言う。

しかしワカメがそれに答えれずにいると、軽く舌打ちしながら懐から鈍い光を放つ、ナイフを出した。

そして、その刃の裏をワカメの頬に押しつけ、

「はい、はどうした?」

と低い声で凄む。

幼い子どもにとってその脅迫は、絶望的で――ついに彼女の瞳から涙がポロポロと流れ落ちた。

ゲラゲラと男たちが一同に笑い出す。


何故、こんな目にあうんだろう……と、ワカメは思わずにはいられなかった。




彼女は元々ある貧しい小さな村の孤児施設に住んでいた。

戦争の傷跡が色濃く残るその地は、何の特産品も採れず、衰退の一途を辿るばかり。

それでも彼女とほかの孤児たちは痩せた土地で懸命に畑を耕していた。

孤児施設の施設長も高齢ではあったが、優しく慈愛に満ちた人で、その愛を身に受けた子ども達は貧しくひもじい思いをしても、不幸だと思ったことはなかった。

――それがある日。

施設長が突然息を引き取ってしまったことにより、変わったのである。


施設長が亡くなった悲しみから立ち直れない孤児の子どもたちの前に、『出稼ぎをしよう』という人たちが現れ始めた。

『大丈夫、子どもでもできる。難しい仕事ではありません』

『仕事のサポートはきちんと行います』

『この件は施設長も理解済みです。ほら、サインがあります』

……そう言って、人の良さそうな笑みで、村人と子ども達を唆し、村から何人もの孤児達を連れ出したのである。


もちろん、それは真っ赤な嘘。


純朴で、何も知らぬ小さな村を騙した団体は、疑う余地のない――大きな人売り組織。

事故に見せかけて、施設長の命を奪ったのも恐らくは、その組織だ。


ワカメも、その人売り組織により村から連れ去られた一人だった。

そして彼女は、

『幼すぎず、大人でもない成長過程である少女はある種の層に大層人気がある』

……と身の毛もよだつ理由で、ジダル王国にあるオークションへと放り込まれた。


しかし――彼女はそこで監視人の目を盗み、逃げ出したのだ。


子どもながらに「これは仕事ではない」と感覚的に感じた彼女は恐怖と本能に従うまま走った。

幸いその時、追っ手はおらず、彼女はジダル王国の中心部から離れることができた。


だが、ジダル王国は犯罪が横行する無法地帯であり、ましてや、少女が一人行動すべき場所でない。


案の定ワカメは、人売りとは全く別の人間に目を付けられて、逃げ続けることを余儀なくされた。

捕まってしまうのは、時間の問題だった。




「……いや、だ」

男たちに捕らえられた少女の真っ青な小さな唇が、震える声を漏らした。

同時に、男たちの目つきが鋭いものに変わる。

「お兄さんたちは、素直な子のほうが好きだなぁ」

ミスマッチな猫なで声と共に、ナイフの背がワカメの頬を撫で、首筋へと移動した。

冷たい刃が、ぞわりとワカメの恐怖を煽り、パニックへと導く。

「いやだ!いやだぁ……っ!」

ワカメは大きな泣き声を上げて、男のナイフを自由な方の手で振り払った。

暗い裏路地にカランカランッというナイフの転がる音が響く。

その時、偶然触れてしまったナイフの刃が、ワカメの手を裂き、鋭い痛みが走る。

しかし、声を上げる前に、別の痛みが幼い彼女を襲った。

――握られた男の拳が、ワカメの白く柔らかな頬を殴りつけた。

その衝撃でワカメの片腕を掴んで持ち上げていた男の手は離れ、重力のままに彼女は地面へと打ちつけられた。

「このガキ! 下手に出てやってんのによぉ!」

「おいおい、顔はよせよ」

「あーあ、赤くなってんぜ。こりゃ腫れるな」

男達の無慈悲なまでの怒鳴り声と呆れた笑い声が降ってくる。

ワカメは尚更声を上げて泣きじゃくった。

しかし、助けてくれる人はいない。

真っ暗な裏路は絶望が見えるばかりで、彼女の涙を止めてくれる者はなかった。

もちろん、男達がそんな術をもっているわけもなく。

「あー、どうすっかコレ」

「ウルせぇし、もう絞めて、イかれた珍食家にでも売ろうぜ」

「うわー人間に食われるなんざ、最低の末路だな」

せせら笑いながら、吐き気を催しそうな残酷な話ばかりが繰り広げられる。

ワカメは泣きじゃくりながらも、その身を恐怖で縮めた。

そして、先ほどのナイフの男がまた懐から鋭い獲物を取り出す。

それは、先ほどの脅しに使っていたものと違って、刃渡りの長い小刀だった。


少女の心は黒く塗りつぶされる。

同時に、彼女は目を堅く瞑った

絶望の闇は全てを浸食し、光など消え去ったかのようだった。


「じゃあ、な」


男は小刀を手にした腕を上げると、少女の小さな体めがけて、躊躇なく降り下ろした。


あぁ!神様も、救世主も、誰も助けてなんかくれない。幸せなんか、希望なんか、私には無いんだっ!


ワカメは、そう心の中で絶望しかけた――――その瞬間。


一筋の銀色の光が少女と男の間に走った。


宙を切り裂くと共に、煌めいたそれは、見事な刀。

その刀は、男の持つ小刀など簡単に弾き切る。


「なんだっ、てめぇ!」

「うるせぇ、カス共。ここがどこだか分かってんのか」

声を荒げたざわつく男達に、その刀を振るった男は渋く冷徹な声で返した。

「あぁ!? ここぁ、ジダルだろうが!」

「……バカ言ってんじゃねぇ。ここは、ネルグ。犯罪都市ネルグだ」

「んだとぉ!?」

「島を越えてるのに気つかねぇで、よそ者が何を追いかけ回してんだと思えば……」

刀の男は、うずくまっているワカメに横目に見た後、男達に見下すような視線を向ける。

「……とんだ害虫が入ってきちまったな」

そして、そう呆れたように呟いた。

男たちは顔を歪めて烈火のごとく怒り狂う。

「んだと!? 殺されてぇのか!」

「いい武器持っていようが、てめぇ一人に何が出来るってぇんだ!」

「二人まとめてやっちまおうぜ!」

口ぐちに叫ばれる物騒な言葉を、刀の男は無言で流すだけだった。

じゃりっと、刀の男が地面を踏みしめる音がする。

それを側で聞いたワカメは、泣きじゃくったまま僅かに顔を上げた。

涙で歪んだ視界に映るのは、一斉に刀の男に飛びかかる男たちの姿。


だけどそれは、一瞬のうちにして儚く散った。


――刀の男が振るったのは、目にも止まらぬ一太刀。

まるでそれは、暗闇に青白く光る、眩しいほどの閃光だった。


ワカメは泣くのも忘れて、その強烈な光景を目に焼き付ける。

刀の男を襲った男たちが、呻きに近い短い声を上げながら、次々重なるように地面へと伏せていった。

辺りに飛び散る赤い液体と、錆びた鉄の匂い。

それは、男たちのものに違いなかった。

「刀が汚れちまった」

背を向けて悠々と立つ刀の男は、不機嫌そうにそう言うと、その刀で宙を切る。

「……っ!」

刀にこびり付いた赤いものが薙ぎ払われて、それがワカメの頬へと飛んできた。

一瞬ビクリと肩を動かすワカメに気が付いた刀の男は、すまなそうに振り返った。

「あぁ、悪い。怖かったか?」

先程の会話とは、比較にならぬほどの気さくな声。

ワカメは、何度も瞬きを繰り返しながら男を見上げた。

真っ白いスーツに、目の冴えるような明るい金色の髪の男。20歳前後だろうか。

先程まで冷たく鋭い輝きを放っていた三白眼は、うって変わって穏やかだ。

「大丈夫か? きつく殴られたな」

男は、ワカメに視線を合わせる為にしゃがむ。

ワカメがまたビクリと体を震わすと、苦笑いした。

その苦笑いはどこか優しくて、彼女の脳裏に一瞬、施設長の顔が浮かんだ。まったく、似てはいないが。

「何にもしねぇよ」

「ほん、と?」

「あぁ、ネルグ街は治安が悪いが……グルメヤクザは子どもには手を出さねぇ」

「…………」

「だから、安心しな」

猫なで声もない、あっさりとした声は、それを事実だと告げているようで、ワカメは少しだけ体の緊張を解いた。

途端に、止まっていた涙が溢れだす。

わんわんと声を出して泣き始めたワカメに、男は困ったように笑いながら、その小さな頭をぐりぐりと撫でた。

「お前、行く宛ては?」

ワカメは泣きながら首を横に振る。

「……だろうな」

こんな寒い冬の夜だというのに、明らか商売用だと分かるワンピース一枚身に着けているだけ。

その傍らには、値段のついたプレートが転がっている。

見慣れた光景に、一体何が起きたかなんて、詮索する必要など男には無かった。


「じゃあ、俺と来るか?」

男はそう言うと、ワカメをその腕に担ぐように抱き上げた。

「俺の所は……どこよりも真っ当なグルメヤクザだ」

驚く彼女の見開かれた瞳からは、キラキラと涙が珠のように零れ落ちる。

「嫌なら言いな。もうちっとマシな場所まで送って行って降ろしてやるよ」


突如、与えられた選択肢に、ワカメは目をぱちぱちと瞬かせる。


――ワカメは、暗闇から突然、光に抱き上げられたような気がしていた。


それは神様の出現に近かった。


いや、彼女にとってその男は、正しくヒーローだったのだ。


ワカメは再び声を出して泣き、「ついて行く」と言いながら男に縋りついた。

男は軽く笑うと、ワカメの頭をぽんぽんと撫でる

そして、自分の名前をマッチと名乗った。




――それが彼女の忘れることのできない大切な記憶。


また、彼女のマッチに対する絶対的な気持ちの原点だった。


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