あぁ俺は魚になりたい、と頬杖をつきながら言うものだから、私はどうにも苦しくなって、とりあえずエラ呼吸の練習でもしてみたら、と意味のない言葉を並べてしまった。

言った私は肺呼吸が上手く出来なくなって、海の中のほうが思い切り息を吸える気がした。







気候は完全なる夏。
一体いつからだったのか思い出せない程長い間、雨の降らない日が続いていた。
吸い込む空気も吐く息も、自分の体温より高く感じる。
事実、高いのかもしれなかったが、それを測る術はない。

雪の舞う島から来た我が船の名医は、ぐったりと横になったままだ。空に向かって伸びているはずの自慢の角さえも、熱風によって飴細工のようにぐにゃりと曲がっているように見えた。


「蜃気楼かしら。…違うわね、幻覚だわ」


独りで話している自覚もなく呟いた。
それを合図にしたのか、金髪のコックは長い足を器用に動かして近づいてくる。


「この熱さだ、仕方ねぇさ」


黒のスーツは上着だけがクローゼットに取り残されているらしく、ストライプのシャツの袖口が丁寧に捲くられていた。
彼の細身のジャケットは、まだ暫く置いてけぼりになるだろう。

空になったグラスを持ち上げて、おかわりはいかがですか、と聞く彼に右手を挙げて断りを入れた。
ここ何日かの水分摂取量は、体の許容範囲を超えている。
元来水分の占める割合の多い人間の体ではあるが、今朝は心なしか顔や足が浮腫んでいた気がしていたものだから、鏡に映る自分の姿を見て、今日は彼のお手製ドリンクは控えようと決めていた。


「それじゃあそこの水だけ替えましょう」


白い指が、私の足元を示す。
つい先程まで冷水で満たされていたそれは、既に体温と同化していて、更には強い太陽光に当てられて幾分蒸発しているようだった。
表に出るのと同時に用意されていたその冷水に両足を浸しながら空と海と古ぼけた本を順番に眺めていたのだが、本来こんなことは一流の料理人の仕事ではないとも思う。

まるで一国の姫君のような扱いにほんの少しの罪悪感を覚えて、動き出した彼の腕を制止した。


「自分でするわ、ありがとう」

「プリンセスの為に働くのがナイトの役目かと」

「馬鹿ね。それじゃあナイトどころか召使いよ」


それもそうかと笑う彼は、実に優雅な仕草で続ける。


「だったら贅沢は言わず、俺は喜んで召使いに立候補するよ」


どこまでも私を甘やかすテノールの声は静かにそう告げた。
私が世界を手に入れたいと言ったら、可愛いすぎるラッピングボックスの中に世界を閉じ込めて差し出してくれるに違いない。


「そんなサンジ君に良いことを教えてあげるわ」

立ち上がって、読みかけの本をサイドテーブルに置いた。


「私って、お姫様なんかじゃないのよ」


それは初耳だ、と大げさなリアクションで目を見開いた彼はさも楽しそうに問いかけてくる。


「それならナミさんは一体何?」


手に持ったグラスの中で溶けた氷がカランと鳴った。
シャツから伝わる、男性らしい骨ばった肩に一瞬手を置いて私は用意していた答えを放った。





「ちょっと美人でスタイルの良い、優秀な航海士なの」



それならやっぱり俺は君の召使いを望むよ、という声を背後に聞きながら船首に向かって歩を進めた。




生命の価値
(20100513)


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