船で最も海に近い場所が、船長のお気に入りだった。
この世のことなど何も、本当に何も考えていないように見えるくせに海を眺める目は、いつも真剣だった。
それこそ気分が悪くなるくらいに、真剣なのだ。
自分の正義を突き通すときに見せる捕食者の目ではない。
あれはもう、誰かに恋焦がれる女の目にさえ似ていると思った。
「ルフィ」
だからと言って、黙って背を向けるほどにはわたしも大人ではない。
それは最近気付いたことだったが、言うほどに冷徹でいられないのが良くも悪くもわたしだったのだ。
「島か!」
「馬鹿ね、あんたが見えないなら島はまだよ」
だから何か見えたら必ず知らせるように、と付け足すと、当たり前だ、と歯を出して笑った。
「それで?」
「ん?」
「あんたはここでまた海に愛を囁いてるわけ?」
「なんだ、嫉妬か」
「殴るわよ」
やめてくれ、落ちたら死んじまう、と肩を揺らしてまた笑う。
思えばこの男はほとんどいつも笑っている。
そうして隠す失望感や葛藤に、誰も手を伸ばせないように。
伸ばしたところでどうにも出来ない現実と、それでもなんとかしてあげたいという女特有の本能との間でわたしは不機嫌になるのだ。
そもそも誰かにどうにかしてもらいたいなどと思っているはずもない人間に対して抱くには、傲慢すぎる感情だった。
「ナミ、俺は、」
「魚になりたい」
次に生まれ変わるなら、と似合いもしない台詞を続けて、視線は海から動かぬまま。
思いつきで放っただけの一言だったはずなのに、どうしてか悲痛な叫びに聞こえて返す言葉を見失った。
「とりあえずエラ呼吸の練習でもしてみたら」
「それってどうやるんだ?」
「わたしが知ってるわけないじゃない」
少しずつルフィの背中に近づいて、その距離がゼロになったときわたしは簡潔に問いかけた。
「ねぇルフィ、泳ぎたい?」
海から漸く視線を外し、わたしの目を見て、泳げない彼は言う。
「ああ」
だから背中を押した。
突然の浮遊感で、伸ばせる腕の存在を忘れてしまった船長は真っ直ぐに海へと落ちていった。
見開かれた黒い瞳を捉えて、急いでわたしも後を追う。
数秒間の空白をはさんで、飛沫をあげる海面の音が響いた。
なんの音だ、と騒ぐ船員たちの声を遠くに聞きながら、ルフィの背中に腕を回す。
「お前、俺を、殺す気か!」
「死なせないわよ」
間髪入れずに答えてみせる。
海に嫌われたこの男が、それでも海とひとつになりたいと願っても、絶対にその命まで明け渡すような失態は晒さない。
「泳ぎたいのなら、泳げばいいのよ」
「だってあんたは人間なんだから」
わたしの言ったことの意味を、理解したのかしていないのか。
わからないまま彼はその瞳を閉じた。
そして絶妙のタイミングで剣士がやってきて言うのだ。
「死神か、お前は」
伸ばされた逞しい腕に引き上げられて、ふかふかの毛皮で覆われた手が洗い立てのタオルをかぶせてくれる。
デッキに咲く華奢な掌が新しい服を運んで、着替えを手伝おうかという料理人の足を思い切り踏んづけた。
未だ虚ろな目で空を見上げている男には、わかっているのだろうか。
仮にどんなに無理をしても、馬鹿げたことを夢見ても、わたしたちの中の誰一人としてそれを止めたり見過ごしたりはしないのだ。
だからもう、諦めたような目で海を見たりなんてしてほしくなかった。
海で泳ぐことしか出来ない魚よりも、わたしたちは遥かに優れた生命なのだから。
「ナミ、俺は魚にはならねぇ!」
「それが賢明ね」
濡れた黒髪をタオルで拭きながら、彼の決意をわたしは満足した思いで肯定した。
生命の価値
(20100513)