終わりと始まり

酷い悪臭がしていた。先程まで兄弟であった人間は腐った肉片に変わり果てハエが集りウジが湧いている。雨風を凌ぐ事も出来ないようなボロい小屋に私は蹲っていた。息を潜め、殴られないよう、目につかないようにと自分の存在を出来る限り薄くする。
家族、とは言い難い関係の人間から毎日のように理不尽な暴力を振るわれていた。満足な食事も与えられず、殴られる日々。腹が減った時はそこら辺の雑草をむしって食べたり、酷い空腹の時は虫なども口にし、泥水を啜った。人間らしい生き方をしていなかった。
しかしその世界が当たり前だった私はそれを疑問に思わなかった。ただ、痛い、辛い、悲しい、怖い、そんな感情ばかりだったのを覚えている。 しかし、いつの日か何も思わなくなった。何かを感じる事さえ億劫になったのだ。何も感じなければ、傷つかずに済む。ごっそりと大事な何かが次々溢れていく感覚がした。

心と体も限界に満ちていた時、普遍的な日常は唐突に終わりを告げた。
私の腹を蹴っていた人間が、暖かく赤い液体を飛び散らしながら倒れる。グシャと何かが潰れたような音が鼓膜を揺らした。頭を抱えるように蹲っていた体を起こしぼんやり顔を上げれば、真ん丸な満月を背にし、目が六つもある長髪の男の人が立っていた。

「だれ…?」

ジッとこちらを見てから、興味が削がれたのか視線を逸らすとスタスタと踵を返す彼の袖に手を伸ばした。無意識だった。指先に触れた服を握る。とても弱い力だったけれど、それを振り払う事なく再びゆっくり振り返り感情の読めない爛々と金色に輝く瞳が私を見下ろした。

「連れて行って。」
「…好きにしろ。」

棒きれのように細くガリガリの手足を必死に動かし、彼のを後を追った。決して離さないように裾を掴んだ手に力を入れる。
これが私と黒死牟の出会い。そして私の新しい人生が始まった瞬間だった。

あの後、好きにしろと言った割には黒死牟は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。垢で真っ黒になっていた私を風呂にいれ暖かく美味しいご飯をお腹一杯食べさせてくれた。満足に読み書きが出来ないと分かると教えてくれた。
今の私を形作ってくれたのは紛れもない黒死牟である。最悪の状況下から掬い上げ、私の世界に色をつけてくれた。抜け落ちてしまいかけていた感情を取り戻してくれた。
彼は、私の全て。
私が生きる理由も彼が全てなのだ。
例え、人を喰う化け物であっても。
むしろ死ぬ時は彼に食べられたい。

「ねえ、黒死牟。」

ゆっくりとこちらを見る六つの金色の瞳は出会った頃と何一つ変わらない。
物静かに座っている彼の膝の上に乗り身を寄せる。出会った時はまだ10もなっていなかった私は今ではもう18。
8年の歳月は少女から女へと成長させたら。しかし私とは違い黒死牟は何も変わらない。頬に手を伸ばし、スルリと触れた。

「いつ私を食べるの?」
「…お前は食べない。」

人を喰う化け物だと言うのに彼はこの8年、私を食べなかった。初めの頃はもっと肉付きが良くなって大きくなったら喰われるのだろうと思っていた。その為に連れて行くのを許してくれたのだと思っていたのだ。しかし彼は私を食べる気は全くないのだと言う。
おかしな人。

「どうして?」

黒死牟は私の質問に答える気はないようである。
綺麗に閉じられた形の整った唇。頬を撫でていた指を移動させ唇をフニリと押す。すると少し咎めるようにらこちらに視線を寄越した。

「ふふ、私、貴方になら食べられてもいいの。むしろ食べられたい。」

強請るように首に腕を巻きつけ抱き着き、瞼を閉じ唇をゆっくり重ねた。ちゅと可愛らしい音を立て離れる。
それが合図だったかのように、先程までピクリとも動かず私の好きなようにさせていた黒死牟の纏う雰囲気が少し揺らいだように見えた。怒っているのではなさそうだ。今まで彼が私に対して怒った事など一度もないのだけれど。

「好きよ。好き。」

背中に手を回しぎゅうと抱きつく。すると壊れ物にでも触れるかのように優しい手つきで私の顎を掴み上に上げると、次は黒死牟から口付けられる。人よりも低い体温。少し冷たい唇が重ねられた。
浴衣の帯を抜かれ、冷んやりとした大きな手が身体に触れる。ゆっくり押し倒された。
少し熱のこもった金色の瞳に体の奥が熱くなる。
私はこの瞬間が好きで堪らない。
私と彼とでは生きる時間軸が違う。永遠を生きる鬼である黒死牟と人間である私。何百年と生きる彼にとって私と居るこの時間はとても短く些細な事だろう。長い長い年月の中でほんの一瞬の時間。
だからこそ、刻みつけたい。この瞬間を。私という存在がいた事を。彼の中に残したい。私を忘れないように。

「私を食べてくれる?」
「お前の望むままに。」

黒死牟の言葉にゆるりと笑った。
きっと私は死ぬまで彼の隣に居続けるだろう。

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