第三話:蝕む疑心暗鬼







 「後で電話してもいい?」
 彼女をアパートまで送り届けた鉄太は、優しく問いかけた。
 「あ、うん」
 梨由は笑って答える。
 ふたりして図書館に寄った後、夕食も済ませてきたため帰りは遅くなった。
 きっと鉄太なりの、気遣いなんだろう。

 「じゃ」
 手を振って、別れる。
 ここから鉄太の家までは、近い、というわけでもない。

 彼の優しさを、素直に喜びたいのに喜べない自分が心底嫌になってゆく。


 このとき、梨由は俯いて歩かずに、少しでも自分の部屋を見上げてみれば良かったのだ。









 「何で別れてねぇの?」
 部屋に入ったとたん、響いた声。
 「……お兄ちゃ…」
 梨由はその場に立ち尽くす。

 スーツ姿の武瑠は、部屋の窓を全開にして煙草を吸っており、
 「あいつって、おまえのことちっとも疑ってねぇんだな」
 笑いながら、やや遠くへと視線を送った。
 「こっち全然見上げもしねぇの」

 錠は中からきちんと掛けられていたため、まさかいるとは思わなかった。
 驚いた、それ以上に、嬉しくて仕方ないから隠すより他はない。

 「鉄太のことを、悪く言わないで」
 鞄を強く掴み、梨由は兄を見据える。
 「俺が悪く言ってんのは、あいつじゃなくておまえだろ?」
 すると武瑠は煙草を、ぐしゃっと灰皿に押し当て消してから、

 グイッ――――…!

 「ひゃ…っ」

 朝から敷かれたままだった布団の上へと、妹を無理矢理押し倒した。

 「何で、別れてねぇんだよ」



 弾みで飛んだ鞄が、畳の上で鈍い音を立てる。
 静かに問い詰められるのは、ものすごく、こわい。
 けれどもそれだけじゃない、近づきすぎた甘い匂いに混じる煙草の匂い、梨由の心はまた、ひどく兄へと惹かれてゆく。

 「わ、別れろなんて…言われてない…」
 震えるくちびるから、やっとのことで振り絞ると、
 「へえ…梨由はそれでいいんだ?」
 優しく微笑んだ武瑠は、囁きを落としたのだった。

 「せぇっかくおまえにだけは、優しくしてやろうと思ってたのに…」

[ 22/96 ]

[前へ] [次へ]

[ページを選ぶ]

[章一覧へ戻る]
[しおりを挟む]


戻る