ハッピーバースデーはカニバリズムで
不意に、彼女が僕を呼ぶ声がした。
重く開いた視界に彼女が映る。神様、ここで僕に少しだけ視力を戻してくれてありがとう。
彼女は泣いていた。泣きながら謝っているようだった。言葉は聞き取れないけど口の動きでわかる。
どうして泣いているの?
どうして謝るの?
悪いのはぜんぶ僕なのに。
僕は優しい声を掛けて彼女を安心させてあげたいのだけど、神様は声までは戻せなかったようで掠れた声すらも出ては来なかった。喉のずっと奥のほうで、頼りなげに言葉たちは項垂れていた。
遠くで救急車のサイレンが聞こえた。それはだんだんと近づいてくるようで、あの音のせいで彼女の声がうまく聞こえないのかもしれない。
近くで何かあったのか、救急を要している人には申し訳ないけれど、あまりにもタイミングが悪すぎるよ。
ずっと泣きながら謝りつづけている彼女は、愛用のバッグと一緒に指輪を欲しがっていたブランドの袋を下げていた。白地に可愛らしいピンクゴールドでブランド名が印刷されている。
欲しがっていたものが手に入ったみたいで、良かったね?
僕の力ではまだ、用意してあげられなかったから。僕は君の望むことは何にもしてあげられなかった。僕のほうこそ君に謝りたいよ、でも、声が出て来ないんだ。
つくづくダメな男で、本当にごめんね?
僕と彼女はただ、誕生日の翌日の再会を果たしているだけなのに、周りには何人もの人が集まってきているようだった。邪魔だな、早くどこかへ行ってよ。
僕と彼女の大切な時間を、お願いだから邪魔しないでよ。
さっきよりも煩くなったサイレンが、本格的に頭を割りそうだ。
「遅くなっちゃったけど、お誕生日おめでとう」と、僕は心から言葉にならない言葉を彼女に贈っていた。
また少し傾いた半月がやけにくっきりと見えた。沈みそうで沈まない舟にはうっすら雲がかかって、さざ波のようだった。
僕はこんなに醜くて、彼女は何とも綺麗だ、だから彼女が背にしている夜空の海はより美しく僕を見下ろしているんだ。
底無しにおちてゆく僕はもう二度と、あの海を泳げないだろう。
僕は君が大好きなんだ。
好きで好きで好きで、好きで仕方がなくておかしくなりそうなんだ。
だから、君が僕の知らない男の人にお目当てのプレゼントをもらったとしても、誕生日当日はその人を優先させたとしても、不甲斐ない僕が全部いけないんだから文句一つも言わないよ。
君がもう僕のことを好きじゃなくても、僕は君のことが大好きだよ。
伝えたいことすら、伝えることはできない。
ああ、そうだ、ビーフシチューにうってつけの食材がここにあった。
つぶれかけてはいるけど新鮮だから、君の手で完璧なメインディッシュを仕上げてよ。
「おめでとう」は伝えてあげられないから、どうか、それで許してね?
二度と開けることのない瞳を閉じた彼の前で、彼女はブランドのロゴが印刷された袋を力に任せて放り投げた。
彼は自分を戒めつづけ、彼女は自分を戒めることをしなかった。
取り返しのつかない過ちが、ぐしゃりと鈍い音を立てて道路に落ちた。
Fin.
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