ハッピーバースデーはカニバリズムで












 暗い海のなかに、淑やかに煌めく一艘の黄色い舟が浮かんでいた。舟はいっこうに前進する様子がないように思えて、気づくとほんの少しだけ前進している。
 傾いたまま決して、地上という名の淀んだ海へ沈没することのないあの舟の名前は、“半月”だった。
 僕は暗い海を眺めているのではなく、暗い夜空を見上げていた。月だけが見下ろす僕の身体は、冷たい道路に仰向けになり動こうという意志に反して全く動かすことができなかった。
 重たくなった身体は、染み入る寒さにぶるりと震えることすらしない。打ち付けた頭の先から足の先まで、しばらく感じていた激痛もだんだんと麻痺してきた。

 今日は大好きな彼女の誕生日のはずが、なぜ僕は道路に打ち付けられ傾いた半月を見上げているのか。
 混沌とした脳内で、思いを巡らせてみる。かろうじて、メインディッシュとして作りかけだったビーフシチューの、火はきちんと止めてきたことを憶い出し安堵する。
 僕は彼女の誕生日にも、へまをしてばかりだった。予約してあったケーキを受け取りに行く時間を間違えたし、肝心のビーフシチューに入れる肉を買い忘れた。
 我ながら呆れるばかりだ、彼女から「残業で遅くなるから無理しなくていいよ」という連絡が来なければ、慌てるばかりの僕はきっともっとたくさんのへまをしてしまっただろう。
 それでも、彼女が欲しがっていたブランドの……とはいかなかったけれど、勉学よりも頑張ったアルバイトの給料でギリギリ買えた指輪をプレゼントにも用意した。

 日付は変わってしまったのに、忙しい彼女はまだ帰っては来なくて、心配になった僕はベランダに出て外の様子を窺おうとした。となると今日はもう、彼女の誕生日の翌日ということになるのか。
 僕は大学生で、彼女は社会人で、いつも頼りなくて迷惑ばかり掛けているからせめて誕生日だけは彼女が好きな料理とプレゼントで、喜ばせて楽しんでほしかったのだけど。
 一生懸命に下を覗き過ぎて、バランスを崩した僕はベランダから真っ逆さまに落ちてしまったようだ。
 賃貸マンションの彼女の部屋は、10階にある。さすがに僕の身体はもう、潰れかけている。あんなにも綺麗だった半月も、霞み始めている。

 早く彼女に帰ってきてほしいけれど、こんな醜い僕を見せるのは気が引ける。僕はまだ彼女に「おめでとう」を言えていない。
 どうせなら、しっかりと原形を留めた姿で、一日遅れとなってしまった祝福をしてあげたい。


 彼女は、大丈夫だろうか、せっかくの誕生日なのに残業をさせられて、疲れきってはいないだろうか。帰路には無事に、就けたのだろうか。
 僕の身体が鉛のように重くさえなかったら、今すぐ迎えに行ってあげられるのに、夜道は危ないから。それに、帰り道で少し早めに「おめでとう」を言ってあげることだってできる。
 いつも不甲斐ない僕で、ごめんね……潰れた心で謝罪をすると涙が溢れた。目の前が真っ暗になり、僕は諦めて瞳を閉じた。瞳を閉じると重たくなったはずの僕の身体は、夜空の海に浮かんでいるみたいだった。

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