dishs and books 1
会社帰りに、やってしまった。
この町の治安はそれほど悪くないとか、仕事が立て込んでお昼ごはんを食べる暇がなかったとか、お腹が空いて空いてたまらないとか、雨がやんだばかりなのに思い切って近道のため、廃工場のフェンスをよじ登ったせいで、よりによっておろしたてのスカートを汚したとか、そういう問題ではない。
ああ、わたしの可愛い黄色地にグリーンの刺繍のフレアスカートに雨と埃のシミが。
……そんなことはどうでもいい。
血だ。雨上がりのアスファルトにあっても、足元で街灯に濡れ濡れと光るそれは、まごうことなく大量の血液。むせかえるような鉄の匂い。
嗚呼、平々凡々に生きてきたのに。
nameは心の中でつぶやいて、意を決して顔を上げた。視線で足元から流血をたどった先には、この血の持ち主であろう、首から上が無惨に潰れた男の体、そしてそのそばに佇むどう見ても尋常でない人物。
端正な顔立ち、闇のような黒髪、モデルのようにすらりとした体つき。ここまではいい。あのう、服がどう見ても奇抜です。立派なエノキダケ(?)が生えておられる……前衛ファッションか。モデルだからか。
そしてその手は獣のように鬼のように大きく骨ばり、鋭い爪が生えている。あまつさえ真っ赤に染まっているときたら、なにが起こったかは一目瞭然だ。
嗚呼、腰細いな。首も細いな。男かな、女かな。羨ましいな。
nameの頭は意味もなく高速回転していた。
彼女はあまりに驚くと言語中枢が麻痺して声が出なくなるタイプである。虫や雷に驚いてもノーリアクションで対処できることから、学生時代についたあだ名が「能面」。悲しい。内心バックバックのチキンハートなのに。
ここまでたっぷり2分。
彼?彼女?は首をコテンとかしげ、顎に指を当てて何事かを考え始めた。
nameはその動作にびくりと体を震わせたが、意を決して、さも『こんなこと日常茶飯事ですわ。』と言わんばかりの体で帰途をたどるべく、まっすぐ彼に向かって歩み始めた。
嗚呼、地面に転がっているお方、どこのどなたか存じませんが、見て見ぬ振りをしてごめんなさい。自分の命が惜しくてごめんなさい。願わくばこのままこの殺人鬼さんとすれ違って何事もなかったかのようにお家に帰れますように!!
パンプスの音がコツコツとうるさい。バクバクうるさいのはわたしの心臓か。
お願い、お願いします。冷汗が背中をつたう。
血で濡れた地面をよけて何事もなく通り過ぎた瞬間、nameの心の中では天使がファンファーレを鳴らしながらガッツポーズを決めた。
ところがそのまま5メートルほど進んだところで、勝利の天使は虚しく霧散することとなる。
「ねえ、君。」
「は、はひッ!」
やばい、声が裏返った。
「まずいんだよね、コレ見られちゃ。」
そうでしょう。まずいでしょう。目撃者がいちゃまずいですよねまずいんだよねですよね。
それくらい平々凡々な人生を歩んできたわたしにだってわかる。何事もなく帰れるかもしれないなんてコッテコテに甘かった……。
「かといって、こないだあまり一般人を殺すなってじいちゃんに言われたところなんだよな、参ったな。いままで目撃されたことなんてホントなかったのにな。」
いろいろと聞き捨てならないワードが聞こえた気がしたけど、アーアーキコエナーイ。物騒なじいちゃんだけど今だけ素直に言いつけを守ってお願い!
嗚呼、この状況、どうやって打開するべきか。
平々凡々な人生とはいえ、だからこそ痛いのは嫌だし、いきなり死ぬのも御免被る。しかも変死だなんて田舎のとーさんかーさんがどれだけ嘆くか。嗚呼お腹空いた。かーさんのゴハン食べたいな、お腹空いた……お腹……
「ごっ、ごはんっ、食べませんか?!」
完全にテンパった頭が絞り出した声は、まさにnameが慣れないフェンスを乗り越え廃工場なんぞに入り込んだ理由であった。
(お腹空きすぎて近道のため、2メートルのフェンスをよじ登る女。)
(遅刻しそうな時もたまにやる……)
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