汝自身を知れ


 ここは地中海に面していて、黄色やピンク色の家並みが連なるまるで絵のような街だ。港通りから奥は中世の面影が残る旧市街で、坂道を登ると建物の間から地中海の絶景が広がる。観光地としてあまり知られていないのか観光客は少なく落ち着いた静かな場所だ。宿屋を出て行き先を決めずに歩いていればいつの間にか住宅街へと入っていた。日の光を浴びながら家の前のベンチで腰掛ける老人夫婦は紅茶を飲んだり本を読んだりしてゆったりとした時間を体に染み込ませるように生きているように見えた。彼らだけではない、この街に住んでいる人々はみんなそうだった。時間の流れが都会とは違うように思える、頭の中を整理し落ち着かせるにはちょうど良い場所だ。気温も暖かく過ごしやすい、あの老夫婦のように外で本でも読んで過ごせば心地よいと思う。

 何か面白そうな本を探して本屋や古本屋を訪れたがあまり興味を惹かれるものがない、こう巡り合わせが悪いと一気に疲れるもので近くのカフェでコーヒーでも飲もうかと辺りを見回していた時、カフェと花屋に挟まれた石造りの小さな店が視界に映る。ショーウィンドウから見える店内には服が見える、洋服店だろうか。しかし真新しい服ではなくヴィンテージさが漂うような店だった。服はそれほど持たないし必要最低限しかない、服屋に興味はなかったがガラスの向こう側に見えた本に視線が釘付けになった。古書だ。服が置かれていない一角には本や、アクセサリーが置かれている。引き寄せられるように店の扉に手をかけて店内に入ったが店員の姿は見えない。

 一角に近づいて一冊の本に手を伸ばす。装丁、本の帯、時代を超えてきたことを表す威厳や雰囲気、全てに心が惹かれる。他の古本屋では手に入らないようなものがこの一角には並べられているのだ。この本達もそうだが、珍しい石を加工したようなアクセサリーや、写真立て、小さな木箱、これらから見える微弱なオーラ。念能力者でなくても職人が想いを込めて作った作品や、身を削った物には自然に宿ることがある。そういった物は価値が高いものが多い。一角だけではない、この店に置かれている服も全てではないがオーラを纏っている物が多い。念が込められたものを見つけるのは念能力者ならできるだろう、しかし店内に選別され置かれている商品のセンスの良さは真似できない。ここの店主は相当な目利きだろう。収集家である念能力者の可能性もある。

 すっかりこの空間に心躍らされていた時、後ろから足音と同時に「いらっしゃいま、せ…」とやけに細い声が聞こえた。裏から出てきた一人の女は予想外だったのだ。店の奥から人の気配はしていたが、こんなに若い女だとは思っていなかった。勝手に店主は髭面の年老いた爺さんだろうと思い込んでいた。この女が店主ではなくただの店員の可能性も否めないがそれはないだろう。この女が店内に現れた瞬間にこの“心地良い場所”が完成したのだ。この本の古ぼけた甘い紙の匂いや主張しすぎない店内の香り、まるで森林浴でもしているような心地よさを醸し出しているこの場所に並べられた質の良い服達、そこにひっそりと存在している赤毛の女は空間に同調しているのではない、彼女が見に纏う服や動く様、空気さえ、そこに彼女がいるからこそ完璧になったのだ。

 この女に見覚えがあった。だからこそより興味が湧いたのだろう。

「今日もいらしたんですか?暇なんですねえ」
「へえ、俺がいると邪魔?」
「ちゃんと何か買ってくださるなら文句は言いませんよ」
「不思議だな、さっきから嫌味に聞こえるよ」

 観光案内してくれとお願いしても、食事に誘っても断られる。女は親しみやすそうな笑顔を浮かべてはいるが決して靡かない。自分の世界が確立しているのだ。そこに何者も立ち入らせぬように壁を作り、笑顔の裏で威嚇しているようにも見える。俺が一般人ではないことぐらいとっくに気がついている、彼女は念能力者だろう。彼女は少し呆れたように息を吐き出して店内の服を整理している。その姿を眺めながらこの女を考察してもう一週間が経つ。こんな地方で古着屋などやらなくても彼女の商品をオークションで売れば数百倍の値がつく、それを分かっているのだろう。そうしないのは金を稼ぐのが目的ではないということだ。

「私、貴方に何かしました?」
「…どうしてそんな事を聞くの?」
「怒ってるでしょう。分かるんです、そういうの」

 当たり前のように息をしていたのに急に喉の奥を締め付けられたように呼吸が止まる。彼女の色素の薄い金色の瞳が心の奥を見透かしているのだ。人間の心は地位や金、権力では決して満たされない、心の隙間を埋める物はもっと別の何かだと、それを物語っているようなのだ。まるで盗賊である自分を否定されているようで胸の奥が苛立ちで掻き立てられる。彼女の細い腕を掴めば警戒するように瞳を細めて睨まれる。この生意気な女を今すぐ殺したっていい。しかし心と体は何故か欲望を履き違えるのだ。薄紅色の柔らかい唇に吸い寄せられるように唇を寄せればそこは蜂蜜のように濃厚で甘い。甘すぎて味覚の一つが狂ってしまいそうだ。



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