開けてはならない


 闇の中で底光りする金色の目。見知らぬ色合いにも見えて、また最もよく知っているようにも見えた。ひどく虚で真っ青な顔。最初は遠くからこちらを見ているだけだった。日を跨ぐほど蛇のように体をくねらせて女はナマエに少しずつ近づいてくる。女は母親に見えた。くだらない幻覚だ。過去が押し寄せ、地獄の果てへと引き摺り込もうとしている。信じがたく逃れ難い身に染み付いた記憶が。

 ナマエは叫び続けた。女に、幻想に、記憶に。声が出なくなってしまえばこの場所に魂までも囚われる。時間の問題だった。本能的に知っていたからできるだけ長く叫び、わめき、悪態をついた。そうしている間は逃れることができた。時々死んだように気を失うこともできた。次第に喉が枯れ、口が裂け血が流れた。気づいた時にはとっくに闇の中にいる気がした。水が欲しくて堪らない。冷たい床に突っ伏していた頬がヒリヒリと痛み、身体中の骨が軋む音がする。もうどれぐらいの時間この場所にいるのかも分からない。視線をふと上に上げた時、目の前には真っ赤な林檎を差し出している女がいた。「食え」と一言女は言った。闇の中にいるのに異様に赤く輝く林檎。喉の奥が蠢いたが不信に心臓は掴まれていた。

「食え」

 月の光で一層白く見えた女の髪を恐ろしく思ったが自由の効かない体を引きずって逃げようとする気力はとうにない。

「食え」

 繰り返し囁かれる言葉は厚みを増すどころか無機質な声だった。ただ、当たり前のように、ただそれだけ。

「哀れな母親と同じ」
「……うるさい」
「助けを待つのか?」

 自らこの家に逃げ帰ってきたくせに、帰らぬ男を待つあの女のようにはならない。ナマエは嗜虐的な色を宿した目を細めて笑ってみせた。皮肉めいた笑みは「そんなものはいらない」と女を嘲笑う。しかし女は何故か満足したように口角を吊り上げた。

「食え」

 ぐっと唇に押しつけられた冷たい林檎。閃光の如く記憶が、感覚が体を駆け抜けていき女の金色の目が滲む。そこで気づいた。女は母親にしては若い、自分によく似ている。刮目し裂けた唇が悲鳴を上げた。自分自身であることに気づいたのだ。父親譲りだった赤毛が色を失ったように消えた。次第に月の光を得た髪は輝き出す。打ち拉がれていた体をゆっくりと起こすともうどこからも痛みを感じなかった。

「食え」

女は消えていた。ナマエは一人、静寂に呟いた。

***

 土砂崩れが起こったかのように地響きが轟いたのはイルミがちょうど門を潜った後だった。一週間ほどの仕事で家を空けていたが嫌な感覚を常に感じていた。ナマエが帰ってきているこのタイミングで自分を厄介払いしたかのようにも思えたからだ。予感は的中したのか屋敷の離れに建っていた隔離棟が全壊している。立ち込める煙でまだはっきりとは見えないが、形を失って崩れていることは確かだった。辺りを見回すとちょうど外で様子を眺めていたらしいミルキがパソコンを片手に震えている。

「ナマエは?」
「あいつが悪いんだ。パパとの仕事を拒んだから」

 ナマエがあの中にいたことは明らかであった。イルミはすぐに立ち込める煙の中へ飛び込んだ。自身でも知らぬ間に、勝手に足と手が動いていたのだ。大きな瓦礫を幾つも投げ飛ばし、飛散したガラスで皮膚が引き裂かれようが構わなかった。たった一人の女を探していた。しかし何も見つからない。何故か背筋に嫌な汗が流れて手には力が入る。あるいは残骸が出てくるかもしれない。潰れた手足か、飛び散った体の一部か。そんなものを見つけてしまえばイルミはシルバを許せる気がしなかった。自分を生んだ父親にさえ殺意を抱き、憤りで肉体が震えるだろう。

「おかえり」

 刹那、上から聞こえてきた恐ろしく澄んだ声。イルミが顔を上げた先に見えたのは瓦礫の山に腰掛けた女だった。足を組み頬杖しながらこちらを見下ろす金色の瞳も、自身の名を紡ぐ唇も、顔つきも見覚えがあった。しかし髪だけは違った。朝日のせいでキラキラと輝くその髪はキルアと同じ色をしている。かつて夕暮れに染まっていた髪だったが既に跡形も無く色素が消えていた。ひどく挑戦的な眼差しは、都会でも稀な域に達しているものだった。突然胃の中を鷲掴みされたかのような感覚に陥り、側にやってきたシルバの存在さえも気づけなかった。

「親父、あれはなに?」

 父親が何故あれほどナマエに執着するのか、本当は知りたくなどなかったのかもしれない。知ってしまえば戻れなくなる。恐るべき深淵の果てへと身を委ねるようなものだ。

「本来の姿に戻っただけだ」
「…本来のナマエ?」

 シルバの目とは対照的にナマエの目には恍惚を阻む煌めいた光が宿っている。愉悦の色を交えているのは知っているからだ。己が最強なのだと。シルバは満足そうだった。人殺しをしない女が自身の一部を殺したことに。

「俺の子だからな」

 鈍く、歪んだ過去を開いてはならない。きっと後悔するだろう。それはパンドラの箱なのだから。



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