飢えた羊飼い


数年前


 急に降ってきた皮膚を刺すような雨から逃げるようにジンと駆け込んだ古びた教会。ずぶ濡れになった服からはポタポタと雫が落ちてきて皮膚に濡れた服がぐっしょりと張り付くような不快感に顔を歪ませ、迫り上がってきたくしゃみの後に身が小さく震えた。ジンは布を多く着込んでいたから中の方は平気だったようだ。濡れた上着だけ脱ぎ捨てるのかと思いきや中に着ていた服も脱ぎ捨てこちらに放り投げてきた。暫くそのまま突っ立っていたが「早くしろよ、風邪ひきてーのか」と不機嫌そうな声が聞こえてきたのでそそくさ自分の服を脱ぎ捨ててジンの服に袖を通す。自分のより遥かに大きなシャツは膝上まで丈が長いので下に履いていたズボンも脱ぎ捨ててしまった。哀れな格好だが、濡れた服をそのまま着ているより気持ちはマシだ。

 ここは所々天井が抜けていて雨水がこぼれ落ちてくる。とうの昔に廃墟に成り果てた教会らしい。それにしてはひどい有様だ、ガラスや木材は盗人やならず者に持ち去られてしまったのだろう。「盗品で用が足りるなら何一つ生み出そうとしない奴らだ」とジンは言っていた。風も入って来なそうな隅っこを見つけてジンは私の手を引いた。あっという間に火を起して腰を下ろしたジンの隣に座って擦り寄っていれば彼の硬い筋肉の内側から太陽のような熱が冷えた体に染み込んでいく。彼は小さな子供みたいに暖かい体をしているのだ。

「誰にやられた?」

 火がパチパチと音を立てる心地よさに瞳を閉じかけていた時、すり寄っていた男から低い声が聞こえた。ジンの言葉が意味していた事にすぐに気づいて肩までずり落ちていたシャツを上に引っ張る。今更傷を隠した所で無駄なのに、彼の前でこの傷を晒したくなかったのは僅かに残った矜持からであった。暫く黙っていたが「答えろ」と更に圧をかけてきたジンに「答えたくない」と怯みそうになる気持ちを押し隠して首を振る。ジンは眉間に深い皺を刻んで舌打ちすると視線を逸らして呟いた。

「その男癖の悪さをなんとかしろ」

 この傷の経緯について何も知らないはずのジンであったが大抵を見抜かれていたようだ。瞬きしていたがすぐに内側でうねるような怒りが湧き上がった。私を殺そうとした道化師の顔が頭にチラつく。その男にもジンにも、まるで自業自得だと責められているようだった。胸の中で嫌なものが渦巻いて痰のように絡みついている。不快感とやりきれなさと、怒りだ。

「ジンには関係ない!」
「ああ?心配してやってんだろうが!」
「家族でも恋人でもないくせに偉そうなこと言わないでよ!」
「テメー今まで散々面倒見てやったのにその態度はなんだ!」
「うるさい!!ジンなんて大嫌い!!!」
「……今なんつった?」

 ピタリとジンの動きが止まって細まった瞳に射抜かれる。違う、違うこんなこと言いたいわけじゃないのに震えた唇は止まってはくれなかった。

「嫌い!ジンなんて大っ嫌い!!」

 腹の底から叫ぶような声が静寂を揺らしたと同時に何かが破裂するような音が空中で響いた。頬から鈍い痛みを感じてそこには熱がじんわりと灯っている。呼吸することを忘れていた肺が動き出した時に初めてジンに叩かれたのだと気づく。頬を自分の手で覆えば何故だか涙が零れ落ちてきた。泣きたいわけじゃない、こんなの全然痛くない、違う。自分でも処理しきれない感情が雫となって目から溢れ出てくる。声を殺すように泣いている私の手首にジンはゆっくり触れると引き寄せられる。

「…悪い」

 労るように宥めるように背中を大きな手で撫でられて更に涙が溢れ出てしまいそうだった。優しくなんかしないでほしい。ジンはいつだって私の感情を大きく揺さぶる。怒りたくないのに罵倒してしまうし、泣きたくないのに嗚咽がするほど悲しくなってしまう。

 ジンの手が頬に触れて彼の唇が額をなぞって下に降りてくる。普段は乱暴でガサツな人が、私に触れる時は信じられないくらい優しい手つきになる。彼の唇が触れるたびにそこには熱が宿り私の怒りも悲しみも吸い取っていく。背中を撫でていた手がシャツの下に潜り込んで腹を撫でたのに身を捩ればすぐ近くで獰猛な視線に捕まった。まるで逃れることを許さないようなその強さに恍惚に喉が疼く。この男が欲しくて堪らない。光を宿した力強い瞳も、太陽なような体温も、大地を揺らがす強さも。他の男たちでは決して喚起することのない感情の線に噛みつかれ、その牙の先から毒されてしまったように脳髄が侵されていく。

 この腕の中にいたい、守られていたい、この男の全てが自分のものになればいいのにと強く思った。思えば最初から狂っていたのだ。

 強い男に守られるというのは気持ちが良いもので、男が強ければ強いほど私が守るに値するいい女なのだと思えたのだ。骨張った大きな手で腰を引き寄せられれば胸の奥が疼く。強い男の腕の中にいるのだと思えば限りない幸福感で満たされていた。しかしそれに一度浸ってしまえば男に対する執着心や独占欲がぐんぐんと増していく。「仕事と私どっちが大事なの」とよくある台詞を吐くようになった。男の1番になりたかった、なれるはずなのなかったのに。男に自分の全ての人生を押し付けて、男のためだけに生きたかったのだと思っていたが、きっと私は男に自分のためだけに生きて欲しかったのだ。



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