水面に浮かんだ顔


「キルアが戻った?」
『そ。俺もハンターライセンス取れたし、とりあえず面倒事は片付いたかな』

 いつの間にか自分の携帯番号を勝手に登録していたイルミの声が耳元で響いた。無邪気で好奇心の塊だったキルアがあの家を出たことに内心ホッとしていたのだが、イルミがそのままにしておく訳がないと思っていた。きっとキルアは今頃地下で吊るされているだろう。想像するだけで嫌な感情が込み上げるが私もあの家を出た身だ、今更干渉などできない。と、いうのは言い訳だ。本当はあの家に近づきたくないのだ。店には私一人しかいなかったので通話をスピーカーにしイルミに適当な返事をしながら店を閉める準備を始める。もう夜の7時なのに外はまだ明るい、日が長くなる季節がやってきたのだとしみじみ感じていたが再び響いたイルミの声に唇を噛んだ。

『あいつお前の事を探してたみたいだよ』

===

 旅は暫くしないつもりであったが列車に乗り込み、バスに揺られてこのククルーマウンテンにやってきた。久しぶりに吸い込んだ新鮮な山の空気はとても美味しい、しかし気分は上がらない。地面を踏みしめている足が非常に重いのだ。

−−−なぜ、ここに戻りたくないのか。

 亡くなった母親を思い出すからだ。

−−−なぜ、母を思い出すと辛いのか。

 ここにいた母親はいつも苦しそうだったからだ。母はいつも戻らぬ父親を待っていた。何度裏切られても信じて待っていた。そんな母親が可哀想で、哀れで仕方なかった。

 肺から息を絞り出すように最後まで吐き切って自身を落ち着かせようとしていた時、視線の先で訪問者達の姿が見えた。

「キルアの友達なんだって?」
「うん。キルアに会いにきたんだ」

 ちょうどキルアの友達だという者たちが訪れていることを知りキルアの所に行く前に暫く彼らの様子を伺ってはいたが、あのキルアが、この家で育った彼にこんなに友達思いの仲間ができたなんてと感慨深いものが胸の内から溢れ出る。正門を開けようと必死になっているのにいてもたってもいられず声をかけてしまった。

「私が開けてあげようか。ミケも私がいれば襲ってこない」

 少年の後ろにいた二人は目を丸くさせたが、目の前の少年だけは揺らがなかった。真っ直ぐで強い視線は私の心臓の端を掴み逆に私を揺さぶろうとしている。

「ううん、自分達でなんとかするよ」
「おいゴン…!」

 この子は何者にも汚されず、太陽に向かって伸び伸びと真っ直ぐに育つ植物のように純粋な強さを持っている。私はこの無垢な視線が少し苦手だ。思い出したくない人と似ているからかもしれない。

「そう。じゃあ頑張ってね」

 それから叔父のシルバを最初に訪ねた。キルアを自由にしてやって欲しいと頼めば叔父は代わりに「頻繁に家に戻ってこい」という条件を出したのだ。叔父は私をキルアやイルミと同じように殺しの道に進ませたいのだろう、しかしそれを強要しないのだからその条件を飲まないわけにはいかない。頻繁にここに戻るのは非常に嫌だが仕方がない。ゆっくりと頷けば叔父の大きくてかたい手が背中を撫でる。

「お前に話しておきたいことがある」
「なに?」

 獰猛な獣のような目がこちらを真っ直ぐに見下ろしている。無意識に体が強張って叔父が触れている所から心臓まで貫かれてしまいそうな感覚に陥った。昔から叔父は優しいが、恐ろしい人なのだと知っている。

「お前の母親を殺したのはこの俺だ」

 本当に心臓まで貫かれてしまったような衝撃を持った言葉だった。吐き気に似た感情が押しよせて喉の奥がか細く鳴いた。震えた唇が言葉を紡ごうとしてもうまくいかない。ゆっくりと叔父から離れると「俺が怖いか」と低い声が響く。違う、そうじゃないと首を振って、震えた腕を押さえつけた。私は心の隅でわかっていたのだ、多分気づいていたのだ。しかしそれを言葉にするにはあまりに恐ろしい事実ではないか、なのに叔父本人の口からそれを聞いてしまえば後戻りはできない。貪欲な感情が胸を食い破って姿を表そうとしている。

「俺が憎いか」

 だがそれこそ叔父が求める私の結末なのだ。思い通りになどならない。少し前の私であったなら叔父に喰いかかり逆に半殺しにされて生きながらこの家に飼われていただろう。

「…過去は過去だから、嘆くことはもうしない」

 きっと何か理由があったのだろう。そう思い込もうとしているだけであってもいい。もういいのだ。自分の中にいくつもある負の感情、記憶、膿のような塊を無理に取り除かなくていい、存在を認めてあげるだけでいい。

(本当に、それだけだろうか)

 私にとって母親とはなんだったのか。優しかったあの人の笑顔はいつも痛かったのはなぜ。

−−−なぜ、ここに戻りたくないのか。

 亡くなった母親を思い出すからだ。

−−−なぜ、母を思い出すと辛いのか。なぜ。なぜ。なぜ。

『過去は過去だ、嘆いてばかりじゃ前も見れねー』

 どうしてかかつて愛した男が浮かんだのだろう。薄汚れた布を羽織って、ボサボサの髪に、無造作に生やしたヒゲ、彼はどんどん前に進んでいって、私は必死に追いかけなくちゃいけない気がしていた。どんなに辛く険しい道もついていった。彼は光だ、私は光を喰らう影だ。

「何を笑っている」

 叔父の声に初めて自分が喉を鳴らしていたことに気づいた。気づいてしまえば水がコップから溢れ出てしまったように笑が止まらなくなった。

−−−なぜ、母を思い出すと辛いのか。

 私は母親と同じだからだ。母を思い出すと自分の鏡を見ているような気分になる、胸糞が悪く、激しい怒りと言葉にならない悲しみで埋め尽くされる。同じように帰らぬ男を待っているのだ。

「おかしくて……シルバ叔父さんを憎んでなんかないよ。だって私、母さんが死んで安心してたから」

 本当は母さんが嫌いだった、子供に目も暮れず男ばかりの母親が大嫌いだった。ここは母親を思い出す地だ、そんな母親にそっくりな自分を否定できずにはいられない地だ、そんな自分が憎くて仕方がないよ。




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