悪鬼が通る




 山奥で走らせていた車を端に止めて車から降りる。街灯もなく、車の光がなければ何も見えないような場所だ。雑木林の中にいると自分が生まれた家を思い出した。よく訓練をサボってミケと走り回っていたら兄さんにこっぴどく叱られた。
 あてもなく前を進んでいれば土や葉を踏みしめる音が響く、時折後ろの方で小さな乾いた音がした。小動物が私の存在を見張っているようなそんな空気が漂っている。しかし別の気配も同時に感じていた。動きを止めて振り返った瞬間、横から鋭い刃のようなものが飛んできた。もう少しでナマエの頭を貫く所だったが動きを止めて振り返ったのは既にその攻撃が訪れることを知っていたからだ。謎の呪霊に攫われた日から一人の時は円に集中していたナマエはあえてこの森の中に入った。真っ暗な森で夜目が効かない敵なら都合がいいからだ。

「ナマエ、いつまで遊んでいる気?」

 気配が近づいてきた先から声が響く。感情が読み取れないような無機質な声、よく知っている声だった。幻聴でも聞こえたのかと一瞬困惑したがそれは闇からヌッと這い出るように姿を表した。

「兄さん?」

 ――いや、違う

 兄、イルミの気配とはまったく違うと理解しているのに全身が総毛立つのは実兄に対する無意識の恐怖だった。それほどまでにイルミそのもの容姿、長く黒い髪も、格好までも同じ。イルミがこの世界にいるはずなどない、凝で見えたのは相当な呪力だった。

 ――タチの悪い、未登録の特級だな

 人の恐怖の対象を象る特級呪霊だと気づいて余計に胸糞が悪かった。

「一緒に帰ろう」
「どこに帰るっていうの?」

 鼻で笑って能面のような面を見つめたが特級呪霊は淡々と「家に決まってるよ」と言った。唾でも吐きたくなるような返答にナマエは腹の底から息を吐き出した。

 ――そこにいられなくしたのは、兄さんだよ

「しつこい男は嫌われるよ、ボウヤ」

 ナマエの声が響いたがそれは特級呪霊に向けられたものではない。薄く笑いながら後ろから姿を表したのは真人だった。ナマエは不快そうに眉を寄せて「めんどくさい」と囁いた。イルミの形をした特級呪霊がムクムクと形を変えて張り裂けんばかりに大きくなっていくのを横目に、オーラを纏って身構えた瞬間それが爆発した。衝撃波と突風に煽られて体が浮く、轟音が鳴り響き、足場が崩れていく、ナマエはすぐにその場から離れようとしたが地面から伸びてきた無数の手によって阻まれ、それは体に巻きついていく。

「気持ち悪い、なにこの特級呪霊」
「妙なことはしない方がいいよ、動けば動くほどそいつは君を絞め殺しちゃうからね」

 自爆したと見せかけて体に巻きついた特級呪霊はナマエを拘束するのが目的だった。オーラで体を纏っていなければ体の芯をへし折られていてもおかしくない。抵抗することをやめて目の前に降り立った真人を見上げれば真人は満足そうに笑っていた。

「こっちにおいでよ。呪術師なんかと一緒にいるのは似合わないよ?」
「それを決めるのは貴方じゃないよ」
「…ふうん、なら人形になってもらうからいいよ」

 この軽薄さにナマエは見覚えがあった。こんな時に彼を思い出すなんて癪だ。「はあ」と息を吐き出したナマエの左胸に真人は触れた。ドクリ、ドクリと脈打つ心臓を確かめるように、愛でるように優しく揉み込めば「盛ったガキが」とナマエが低い声を投げ捨てる。しかしその瞬間、心臓が大きく痛いぐらいに跳ね上がる。
 
 ――無為転変

 真人が彼女の魂に触れた瞬間、見えたのは闇の中に佇む一人の男だった。真っ黒のコートを着込み、片手には分厚い本を持っている。男が立っている足元にだけ小さな蝋燭が数本あり、ぼんやりと男の姿を映し出していた。男の額に刻まれているのは印象的な十字架だ。瞼を伏せていたが、こちらの存在に気づいたようにゆっくりと瞼が開かれれば真っ黒の瞳が笑っていた。

「彼女の奥底に触れることは許されない」

 片手の本が綺麗に2つに開かれた瞬間、バチンッと電流が身体に流れるように精神を引き戻される。弾かれたのだ。この女も中に違う魂を所持しているのか?いや違う、そんな感じではなかった、あれはもっと自分に近いような…そう、呪いだ。

「フフッ、驚いたよ。君、自分の中に呪いがあるんじゃないか!やっぱり君がいるべき所はそこじゃない!」
「……オマエ、死ぬ覚悟はできてるよね?」

 顔を下げていたナマエの黒目がゆっくりと動いて真人を見上げれば、真人の体を覆ったのは恐怖という限りない感情だった。ゾクゾクと痺れ上がるような真っ黒で重たい冷たさ、この女の狂気が顔を出そうとしている。身体中の血が波立っている、小刻みに震えた真人の手が、体が、唇が、全身でこの女から逃げろと警告していた。彼女を縛る特級呪霊の力は増していく、皮膚が張り裂け、血管が破裂して血飛沫が上がっているというのにナマエは痛覚を失っているかのように叫び声一つあげない。眉を寄せて痛みに耐えることも、唇を噛んで恐怖に怯えることもない。この女は本当にバケモノだ、真人の顔がぐにゃりと恍惚に歪んだ。

「領域展開」

 真人は咄嗟に足を変形させてその場から逃げた。鼓動が早くなって息が漏れる。白い球体が大きくなっていくのを見下ろしながら「間一髪だったね」と後ろから夏油が真人に声をかけた。
「彼女が欲しいよ。夏油もあの狂気に触れてみればわかる、あんなにゾクゾクしたの久しぶりだ」
「彼女に関しては謎が多すぎる。早く退かないと五条悟が来るよ」
 ゆったりと真人は笑うと、二人はその場から姿を消した。

 ***

 全ての空間が白紙のように真っ白だった。そして絵の具で塗りつぶされていくように草原が広がっていき、青い空、太陽、小川、花々が形成されていく。そんな空間の中で小さな家がポツンと存在していた。木材で建てられたシンプルな家の前に白いテーブルがある。その上の花瓶には草原で摘まれた黄色い花が生けられていて、その横には白いコーヒーカップが置かれていた。しかし一番存在感を放っていたのはテーブルの横に並べられた椅子に腰掛けている男だった。男は視線の先でバラバラになっている特級呪霊を静かに見下ろしていたが「すばしっこい奴だ」と真人の事を呟いた。そして男の視線は木陰の後ろにいた人物に映る。
「出てこいよ、話をしよう」
 いつも吊り上がっている口元を真一文字にさせ、男の前に顔を出したのは五条悟だった。そして彼はさぞ不愉快そうに低く喉を鳴らす。

「怨霊がいつまでもナマエの中に留まってんじゃねえよ」



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