うんざりだよ、欲しがりは




 ナマエを取り巻く壁はとても分厚く冷ややかだ。一人で佇んでいる時の空気はまさに「近づくな」といっている様に鋭く重たい。完璧な美しさをとって付けたような笑顔の裏ではいつ牙をむいてくるかも分からない凄みがあるのだ。

 しかし彼女は時々驚くほど脆い一面を見せる。灰原や七海に向ける葛藤のような何かが彼女の顔を曇らせる。完璧のように見えて不完全なその姿が一瞬で消え去ってしまいそうだったのだ。死んでいたかもしれない状況で生きのびた彼女は空っぽになってしまったかのように喜ぶことも悲しむこともしなかった。危ういのだ。いつだって死を受け入れているようなその顔つきに、自然と唇を噛んでいた。

 猫のように気まぐれで、死に際を悟られぬように姿を消してしまいそうで。彼女が誰にも知られずにひっそりと孤独に死んでいくのを想像するだけでとても嫌な感情で埋め尽くされる。

 ナマエが呪術師じゃないことやどこから来たなんてどうでもよかったのだ。彼女の首襟を掴んで見えた白い頸の先、絹のように滑らかな肌には似合わない傷跡だった。肉を抉られ、削ぎ落とされ、欠けた肉片を補うように硬く腫れたような褐色の皮膚が鞭打たれた痕のように線を引いて残っている。それは一つや二つではなく、いくつもが重なり合って元の皮膚の色さえも失っている。服の隙間から見えたのはほんの一部なのかと思えば息が詰まりそうだった。これほどまでに深く残っている傷跡を見たことがない。死を懇願するほど痛かっただろう、苦しかっただろう、きっと彼女はこの時生への感情を捨てたのだと思えば内臓が震えるほど激しい怒りが体を満たしていく。

「やっぱそいつブッ殺す」

 それはきっとナマエの兄の仕業だろう。そこから彼女は逃げてきたのだろう。殺してやる、俺の手で、目玉を抉り出して、内臓を引き摺り出し、形も残らないほどにぐちゃぐちゃにしてやる。俺の声に怯えたのか、それとも傷を見られたのが嫌だったのか、背後にある壁に体を張り付けてこちらから距離と取り威嚇するように息を荒らげていた。逃げ場を失って怯える動物のような目で痙攣しているように震える肩、虐待を受け続けてきた子供を目の前にしているかのような様に喉の奥からヒュッと冷たい空気が通り抜けて、胸が押しつぶされてしまいそうだった。顔を背けたくなる、こんな現実に。

(なん、で)

 体を震わせていた怒りが沈んでいけば目の裏まで込み上がってきたのは限りない悔しさだった。「悟、もう帰ろう」隣で呟かれた傑の声にさえも表現しきれぬ感情が滲み出ているというのにこのまま彼女に背を向けるなんて俺にはできない。したくない。

「辛いなら、泣けばいい」

 自分の体を腕で抱くようにしていたナマエの瞳が揺らいだのを逃さなかった。どうして彼女は自分の感情を抑えているのだろう。取り繕った笑顔の内側は、泣き叫んでいるのではないか、息ができないと喉を掻きむしりながら苦痛に身悶えしているように見えてならないのだ。悔しい、悔しくて堪らない。どうして、俺がいるのに。

「苦しいなら俺に助けてって言えよ…!」

 泣きたいのは、俺だったのかもしれない。押し寄せてくるどうしようもない感情をぶつけることしかできないのは俺もひどく不器用だからだ。肩をビクリと震わせたナマエは次第に「こわい」と掠れた声で言った。

「私は誰も守れない…壊すだけで…自分が信じ、られない……私は自分が、こわい、こわくてこわくて堪らない」

 じわり、と彼女の瞳が潤いを増して、揺らめいだ大きな感情が溢れた。

「頭の中で兄さんと弟の声が響くたびに、頭が割れそうに、なる…の…」

 涙が溢れると歯止めが効かなくなったように止めどなくそれは流れる。ぐしゃりと顔を歪めて、溢れた感情、震えた唇が彼女の心の内をぼろぼろと溶かしていくのだ。

「生きているのが、苦しい……!」

 彼女の抱えるもの全てを知りたい、教えて欲しい。その涙が心を掻き乱しては息苦しくも切ない感情で胸がいっぱいになるのだ。抱きしめたい、と手を伸ばしたがそれが届く前に傑がナマエを引き寄せていた。小さな子供のように声を出して泣いている彼女を優しさで満たすように抱きしめて、落ち着かせるように背中を撫でつける。

 『私は応援できないよ』と傑が言った意味が痛いほど胸を貫いたが、今の彼女を温もりで満たしてくれるならそれでもよかった。嫉妬心とか独占欲とかそんなもの当たり前のように存在している、でも大事なものはもっと深いところにある。彼女を腕の中に閉じ込めるよりも、彼女を苦しめているもの全てを取り除いてやりたい。この感情に名前をつけるには俺はまだ青すぎるだろう。でもきっと何年か後の未来では彼女に毎日でも伝えてやりたい。こんなに人を守りたいと思ったのはこれが初めてだと今度は自分の手で抱きしめたい。



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