腐った肉を食べてはいけない




『姉貴、俺の願いを聞いてくれる?』



 瞼を開いた先に見えたのは無機質な天井だった。自室ではない、高専の医務室だ。ああ、私は生きているのか。嬉しくも、悲しくもない。心の一部がすっぽり抜けてしまったように呆然とした気持ちだった。誰かの息遣いを感じて石にでもなったみたいに重たく硬い体を起こせば身体中が軋んでいるような気がした。視線の先で最初に見えたのはベットに上半身を預けて寝入っている五条さん。その横にはベットサイドの椅子にもたれて同じように眠っている夏油さんだった。外は真っ暗なようだけど今何時だろう、サイドテーブルに視線を向ければ花瓶に真新しい花が生けてあり、その隣には『早く起きてね』とメッセージが書かれたお菓子のパッケージや未開封のタバコの箱が積まれている。ついその光景に端っこに置いてあった私の携帯を見落としそうになった。画面にそっと触れれば見る気持ちが半減しそうなほどメッセージが溜まっている。きっと雄くんと健人くんに違いない、これは後で確認しよう。時刻は深夜1時、私は四日ほど眠っていたらしい。

 高専の服を着たまま寝入っている二人に再び視線を移した時、暗闇の中で光る青い目がぼんやりと開かれていた。まだ寝ぼけているのか何も言わない五条さんは暫く瞬きした後に「お、まえ…!」と憤りを露わにさせ勢いよく体を起こした。その声で横の夏油さんも起きて「ナマエ!よかった!」とひどく安堵したように息を吐き出す。

 この二人、眠ってしまうまでずっとここにいたのだろうか。私に聞きたいことがたくさんあるはずだ、きっとそれを問いただしたいのだろう。聞かれなくてももう全部話す覚悟はできている。

「私を襲ったのは兄です」

 急に話を始めた私に二人は少し目を見開いたがすぐに神妙な面持ちに変わる。「お前の兄貴呪詛師なの?」その問いに首を振る。あそこには何の残穢も残っていなかったはずだ。私も呪力を使っていないし、兄は呪力さえも無いはずだから。変化系の私と違って操作系の兄がオーラを呪力に変えることはないだろう、呪具を持てばまたあの場は違った状況になっていたかもしれないけれど私達念能力者同士の戦いに呪力など不必要。

「私達は念能力者。念能力というのは生命エネルギーが形になったもので…私が来たところでは誰でも持っているエネルギーなんです、使いこなせるかは別として。呪力に似ていますが違います、術式のようなものが使える力と考えるのが分かりやすいですね。だから私は呪術師じゃないし、兄は呪詛師でもありません。私達は真似事をしているだけです」
「真似事で呪力を使えるってことか」
「…私はオーラを呪力に変えることができる系統ですが兄は違います。できなくはないけど兄は使う必要性も感じてないと思う。呪力はなくても人間相手なら念能力だけで戦えるし、兄が呪具を持てば特級でも祓えると思います」
「……呪力が雑魚並なわけだ」
「まあそれで呪霊と戦えるならそれでいいよね。円ってやつすごく便利そうだったし」

 二人は少し驚いていたが対して反感はないようでこちらの方が動揺してしまった。反応、それだけ?と突っ込んでしまいたくなるほど。強者であるこの二人だからかもしれないというのは大きいと思うが。逆に理由がわかってスッキリしたと言わんばかりの五条さんの表情に眉を顰めてしまった。付け足すように「お前がどこから来たとかそんなことどうでもいい」と五条さんがため息混じりに言えば「…なるほど」としか返せない。

「問題はお前の兄貴だろ。お前兄貴に殺されかけるほど恨まれてんの?」
「……兄は容赦ないから。きっと私を家に引き戻したいんです。だから邪魔をする、これから先もずっと」

 今でも兄の声が脳裏で反響している。擦り落としても落ちない汚れのように頭に纏わりついて、見えない糸で私を操作しようとしている。本当は、怖くて怖くて堪らない。兄は決して諦めない、この世界に逃げ込んだ私を追いかけてきたのだから。本当にどこへ行っても同じなのかもしれないと思ってしまえば心の中に鉛を投げ入れられたかのように胸がズン、と沈んでいくのだ。もう二度と這い上がれないほど深い海の底まで、一人で。自然と震え出した手を押さえつけて唇を噛んだ時、五条さんの声が胸を貫くように響いた。

「お前はどうしたいの」

 どうしたいって、何が。下げていた視線を上にあげた瞬間、サングラスを通さない青い瞳に怒りに似た尖った感情が滲み出ていて喉の奥が凍りつく。

「俺がそいつを殺してやろうか」

 唸るような獰猛な声に何も言えなくなってしまって、彼が今どんな感情でこの言葉を発しているのかわからなくなる。呪術師として呪詛師の兄を殺すのか、それとも、それともと期待せずにいられない自分が嫌だ。私の肩が震えていることに気付いたのか夏油さんの声は子供に問いかけるように優しかった。

「ナマエのお兄さんであっても呪詛師の真似事をしているだけでも、呪詛師として私達の敵になるなら処刑対象になる。でもただの兄妹喧嘩のようなものなら、」
「やめて」

『姉貴、俺の願いを聞いてくれる?』

 鼓動が早くなり、喉が驚くほど狭くなったような気がして呼吸が困難になる。場を切り裂くように放たれた自分の声が憎い。

『俺のこと、忘れないで』

 だから、それ以上優しさなんて感情を感じたくはないんだ。非力な自分がもっと嫌いになりそうなんだ。絞り出すような声で「兄は私が何とかしますから」と言うのが今の自分の精一杯だった。頭の奥からガンガンと響くような恒例の痛みに瞼をぎゅっと閉じて堪える、早く一人になりたかった。

『一緒には行けないけど、姉貴は旅に出るんだ。そこで沢山友達を作って、俺達みたいな人間も誰かを守れるんだって、幸せになって証明するんだ。約束だからな、姉貴』

(無理だよキルア、できない、できないんだよ…!私はどうせ変われない!)

 脳裏で響く声をもう聞きたくなどない。両耳を手で塞いでそのまま蹲れば「お前のそういうところがムカつくんだよ!」と痺れを切らしてガッと五条さんの手が服の首根っこを掴んで私を引き上げようと服を引っ張る。首元が閉まって苦しくなったが意地でも顔を上げなかった。しかし罵倒される声は振ってこない、恐る恐る視線だけ上げてみれば五条さんも夏油さんも同じようにぐしゃりと顔を歪めている。嚥下障害でも起きたかのような顔に空気が変わった。

「………これ、何」
「っ…!」

 二人の視線が私の背中に集中していることに気づけば、硬い氷のような緊張が一瞬で融け、羞恥という熱が体の芯から湧き上がる。咄嗟に五条さんの腕を力づくで叩き落とした。傷を見られた、二人に見られた。今すぐこの場から逃げ出したい。反転術式で傷跡までは治らない。きっと硝子さんもこの傷跡を見たのだろう。終わることのない永遠の絶望のようなあの苦痛が鮮明に蘇ってきては、胃液が込み上げてくる。底なし沼のような真っ黒な双眸が私を今まさに覗いているような恐ろしさで身が竦み上がる。こんな醜い傷跡を誰にも見られたくはなかった。裸で放り出されたような気分だ。屈辱という重力が全身に乗りかかり肺が押し潰されているように苦しかった。消えてなくなりたい。

「やっぱそいつ」

 小さく放たれた声と同時に五条さんの顔を夜空に流れる雲の影が覆い隠した。ゆったりと再び顔を出した月の光が彼の白髪を美しく照らす。しかし穏やかな夜をこんなに緊張感で満たしたことはない。

「ブッ殺す」

 咽喉から渦巻く煙のように鳴る声は咆哮のようで、狩を目前としたように憤る瞳に唇が震えた。



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