銀色の海に溺れる前に
後輩の一人が前を歩いているのが見えて歩く速度を上げた。白いヘッドホンを装備して爆音で音楽を聴いてるから聞こえないのか、それともわざとやっているのか。後ろから話しかけても振り向きもしない。
「オイ、先輩様をガン無視とはいい度胸してんな」
肩を掴んでやれば男の肩なんかよりも全然細い。そのまま腕に手を滑らせて掴めば柔らかいというよりも無駄な肉がなく程よく筋肉が付いているのを感じた。コイツが走っていたり、トレーニングしてる所なんて見たことがないけど。しかしこんな腕なんてすぐにへし折ってしまいそうだ、なんで俺はこの女に負けたのだろう。
「……なんですか、五条さん」
ヘッドホンを取ると顔だけ振り返って、不機嫌そうに片眉を歪めている。同級生や硝子や傑の前では愛想よくニコニコしているくせに、俺にだけ明らかに態度が悪い。思えば無理やり引っ張って高専に帰ったあの日から劇的に。
「お前、まだ俺に怒ってんの?怒られる理由ないけど」
「怒ってないです。うざいとは思ってるけど」
「わかった、俺のこと好きなの?好きだから冷たくしちゃう的なやつ?」
「でたよ。自意識過剰」
「は?殺人鬼みたいな名前しやがって生意気言ってんじゃねえよ」
一瞬ナマエの目が見開いて瞠目する。この手の冗談いつものことじゃないか、明らかに動揺した彼女を前に「本気にすんなよ」と自然と声が漏れた。
「…ですよね」
ですよね、ってなに。その顔、まるで本当に殺人鬼だと言っているようじゃないか、もしかしてちょっと抜けてる所があるのかもしれない。
「そういえば…」
ずっと喉の奥に引っかかっていた彼女のあの傷を確認するためにそのまま腕を引けば、真っ白な手首が露わになる。脅威的な治癒力で傷は塞がってはいるがミミズ腫れのように傷跡が残っていた。
(うわ、最悪)
瞬間的にそう思った。なぜだかはわからない、嫌いな食べ物を飲み込んでしまった時のように罪悪感みたいな嫌な感情が迫り上がって息が詰まる。
「なんですか、その顔」
「は?」
気づけば彼女がまるで異様な物を目にしてしまったかのように顔を歪めている。いや、こっちの台詞なんだけど。
「その顔って、どんな顔だよ」
別にお前ほど変な顔してなかったと思うけど。虫を払うように手を振り落とされて、「なんでもないです」とどこか憤りを感じさせる背中を向けられた。逃げるように歩き去っていくのを追いかけようとしたのか自然と足を踏み出したが後ろから聞こえた傑の声で静止した。
「女の尻ばかり追いかけてるなんて悟らしくないな」
傑は違和感の残る薄っぺらい笑顔を浮かべていた。
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寝苦しさで目が覚めて、このまま同じように瞳を閉じるのも無理だった。そうだ、灰原でも起こしてゲームしよ。傑は確か夜遅くに任務から帰ってきていたしきっと爆睡してる、七海は起こしたら後が面倒だし、傑いないけど灰原ならまぁ及第点。灰原の部屋の扉をノックもなしに開けばそこには女の姿があった。一瞬こいつ女連れ込んでやがる、と後輩に対して滅多に抱くことのない感情が湧き上がったが、その女はあの生意気な後輩だったのだ。
「なんでお前がここにいんの」
ナマエと灰原が同時に顔を上げてこちらを見上げれば「なにって、ゲームしてるんです」と当たり前のような回答が返ってくるのに苛立ちが込み上げる。揃ってコントローラーを握っている姿を見れば何をしているかなんて明白だ、そんなことが聞きたいわけじゃない。
「五条さんこんな夜遅くにどうしたんですか?」
こっちの台詞だよ。なんで女連れ込んでゲームしてんだよ。
「なに、お前ら付き合ってんの?」
思ったよりも低い声が出て自分でもそんなに嫉妬するほどかと疑問に思う。別にそういうことする女なら作ろうと思えば腐るほどいる。なんでこんなに体が重くて頭の先で黒い煙が渦巻いているみたいに不快なんだろう。
「違いますよ、よくみんなで夜通しゲームするんです。健人くんもさっきまでいたけど先寝ちゃった」
「…ふーん。俺にもやらせて」
「ちょっと僕飲み物買ってきますね」
よくしてるって、意外に一年は仲良いんだな。強引にコントローラーを奪い取って灰原が座っていた場所に腰掛ければ、触れてもいない彼女の体温をほんの少しだけ皮膚が感じとる。「まだ途中だったのに…」と項垂れる彼女のハーフパンツの下から伸びている白い足に思わず彼女の額を手のひらで叩いた。
「いたっ。なんなんですか?!」
「……お前さ、いつもそんな格好で男の部屋来るの?」
「そんな恰好って?」
「見苦しい格好すんな」
「はぁ?」
コイツが来てから煩わしい感情ばかりが吹き上がる。でもその中に苛立ちや絶望とは正反対の感情がポツンと存在している。今はまだ、それに気づきたくはないと願うのはきっと自分が欲で埋もれてしまうからだ。
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