心揺さぶられる人



「君の寝室を独占するわけにはいかない、俺がここで寝よう」
「怪我人をソファで寝かせるなんて私にはできません」
「なんなら床で寝よう!」
「…普通にベットで寝てください」

 ソファの前で言い争っては1時間が経過したがナマエは煉獄の圧に今にも折れてしまいそうだった。しかし退くわけにはいかない、血塗れていた怪我人をソファで寝かせて自分だけ奮発して買ったセミダブルの上で寝るなんてとてもじゃないができない。

「わかりました、じゃあ一緒に寝ます?」と苦笑しながら冗談を言ったつもりであったが、煉獄は「なっ」と一瞬珍しくもたじろいだものだからナマエは目を瞬きさせる。しかしこれが原因でこの争いに負けることになるとは思いもしなかった。「嫁入り前の女性が何を言っている!その発言は頂けないぞ!」とすごい迫力で煉獄に諭されてしまったのでそこからうまく言葉を紡げなくなったのだ。ほんの冗談のつもりであったのに、という言い訳は大正の男に通用しない。ましてやこの煉獄の性格では一歩も引かないであろうということは容易に汲み取れた。本当に大丈夫なのだろうかと思いながらもナマエは大人しく頷けばようやく煉獄も息をついた。

「見てください煉獄さん、今日は満月ですよ」

 煉獄が寝るソファを少しでも居心地の良いものにしようと枕やクッション、毛布を支度して部屋の電気を落としたがカーテンを透かして射し込んでくる光で部屋全体はぼうっと明るいままであった。バルコニーに出てみればまん丸の綺麗な月が浮かんでいる。星影が霞むほどの鮮やかな月光を眺めていれば、いつの間にか煉獄もナマエの隣に並んで上を見上げていた。

「煉獄さんも座ってください」
「ああ、では失礼する」

 バルコニーに出してあった小さなベンチに大人2人が腰掛ければ肩同士が少し触れ合った。煉獄は特に気を悪くしているようには見えなかったのでナマエは何も言わずに月の輪郭がぼやけるまでそれを眺める。並んで座ればいかに煉獄が自分と違うか理解できた。投げ出した足の長さも、体格の良さも。眼に見えない強張りの波が体を走り、これを悟られまいと唇を噛んだ。

「ここは明るすぎる。煉獄さんのいた所の方がきっと星が綺麗に見えますね」
「確かに夜空は綺麗だった。しかしこれほど安堵して眺める事などあまりなかった。だから俺はこの夜空も十分に美しく見える!」

 夜は鬼が出る。祖父の言葉を思い出してナマエは腑抜けていた口元を締めた。今は夜も外に出て遊んだり、飲んだりしているのが普通の世の中だ。この普通は誰が勝ち取ったのかと言われれば知るものはいないだろう。それはなんて切ないことなんだろうか。自分はまだ何も知らない、本当の恐怖も、死の直面も。どれだけの犠牲があったかも知らない。不意に煉獄の隣でぼんやりと月見をしている自分が許せなくなってしまって指先を丸めた。

「今、みんなが安心して暮らせるのは、煉獄さん達のおかげです。私達はのうのうと便利な暮らしをしてるけど、貴方達が犠牲になってくれているからだと祖父は言っていました」

 ぎゅっと拳を握りしめた時、頭にぽん、とあの大きな手が降ってきた。前と同じようにぐしゃぐしゃと髪を乱しながら「そんな顔をするな」と至近距離で煉獄は笑う。

「それでいいんだ。君が気に病むことなど何一つない。それに君の祖父は少なくとも俺たちの努力を知っていたし、君に伝えてくれただろう。それだけで十分だ」

 口元を吊り上げた煉獄の笑顔に曇りなどない。本当にこの男は全ての人のために戦っているのだ。たとえ命を落としても本望だと笑うような人だと思えばじんわりと胸の奥が痛くなってなんだかやりきれない気持ちになった。代わりに泣きたくなってしまった。

「じゃあ私は、絶対煉獄さんの事忘れない」

 ずっとずっと心の片隅に彼の存在を残しておこう。祖父のように子供ができたらそれを伝えよう。祖父にはもっとたくさんの想いがあっただろうから全ては理解できないかもしれないけど、何故私達にこういう話をしたのか今なら少しわかる。不意に頭にあった煉獄の手が離れたかと思えばスッとその手は肩に置かれた。自然に上を見上げればすぐそこに煉獄の顔があって熱が上へと上がっていくのがわかった。見開かれた力強い眼差しに射抜かれ心臓が大きく揺らいだ。

「やはり俺は、戻らなければならないと今一度確信した。君が穏やかに暮らせる世にしたい。だから俺は責務を全うする。ありがとうナマエ」

 心のうちの何かが揺さぶられるような芯のある声だった。お礼を言われる事など何一つしていない、お礼を言いたいのはこっちだ。しかしそんなことよりも煉獄があの時代に戻らなければならないことを不快に感じた自分に辟易したのだ。


***


 明朝、リビングの扉を開けてみれば煉獄の姿はなかった。ソファの上の毛布は綺麗に畳まれており、洗濯してあった隊服や刀も無くなっていた。久方ぶりの静けさに部屋が青く広く見えた気がした。煉獄は怪我人だというのにいつも太陽が顔を出す前には起きて人気のない場所で素振りをしてナマエが起き上がってくる頃には既に風呂を済ませてスッキリした顔で「おはよう!」と元気よく挨拶する。それが日課になりかけていた。タイミング良く予約していた炊飯器が炊けた音が響く。煉獄が好きだと言っていたさつまいもご飯。昨夜から準備して、朝からお腹が空いているであろう煉獄のために多めに炊いておいたが必要なくなってしまった。

「こんなにたくさん食べきれないな…」

 虚しく響いた声、元の生活に戻っただけだというのに。大量のさつまいもご飯にやりきれなさを感じてしまう。ソファの背もたれにもたれ天井を見上げた。もしかしたら今日はもういない気がしてた。元々長くいないだろうとも思っていた。だからこそ少し切なくなっているのが不思議だった。彼はここにいれば危険なことはない、もっと長生きできるかもしれない、祖父が生きていれば良い話し相手になってくれただろうとくだらない幻想を抱いていたのかもしれない。煉獄が去った今、どこか現実味がしない生活だったと思ったが、彼のおかげで今があることは絶対に忘れないだろうとも思った。それほど煉獄杏寿郎という男は印象的で、心揺さぶられる男であったからだ。自分も誰かの心を揺さぶるような人間になりたいとも思わせてくれた。短い間だったが煉獄から得たものは多かったのだと気付けば時間を巻き戻したい気持ちになる。

「ありがとうって、言えなかったな」


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