鮮やかな夜明け



 デスクの前で考え込んでもう随分と経つ。眼球が乾燥してきて瞬きするのも少し痛い。ブルーライトカットメガネを横に置いて軽く背伸びしてからナマエは立ち上がった。もう眠ろうと寝室のトアノブを握って開くといつものようにギィっと軋む音が響く。蝶番に油を刺せば音はしなくなるのだろうが、面倒で手をつけていなかった。油を刺すだけなんてそれほど時間もかからないがやらなくても生活はできるし、優先順位の低いものは忘れがちだ。しかしこういった小さなことが積み重なってダメ人間になっていくのではないだろうかと考えると、明日には行動しようとも思う。

「いっ!」

 真っ暗な部屋の中をベットめがけて歩き出そうとした時、右足が鈍く重い布切れにぶつかった。指先がぶつかったことに呻いたわけではなく、ぶつかった反動で体制を崩して横にあったタンスに額を強打したからだ。ジンジンと鈍い痛みが額の内側から広がっていくようだ、頭をぶつけるなんて久しぶりで思わず顔を顰めた。しかし、こんな所に何か置いた覚えはないとベットサイドのランプの紐を手繰り寄せて光が灯った時、あまりの驚愕に喉の奥から渇いた叫びを吐き出した。

(誰か、倒れている!)

 床に突っ伏していたのは人間のようだった。しかし驚いたのはその人間が血まみれだということだ。自分の家で、しかも寝室が殺人現場になろうとは誰も思いもしないだろう。震えた手でなんとか携帯を取り出して救急車を呼ぼうとしたが、男の真っ赤な羽織の下に見えた滅という字に脳の片隅に沈んでいた言葉が走馬灯のように蘇った。

 暗闇も赤も消し飛んで、頭が真っ新な画用紙のように白くなった。そんなナマエの中に穏やかで優しかった祖父の声が鮮明に響く。

『もし、あちらから誰かが飛ばされてきたならば助けてやれ』

 物心つく前から祖父に言い聞かされていたことだ。思いのまま携帯を放り投げて男に近づけば男の手には剥き出しの真っ赤な刀が握られている。近づくのも触れるのも躊躇うほどの鋭さに息を呑んで視線を男へと向けた。床に突っ伏しているが、喉元は動いているし息はしている。意識がなく、ずっしりと重い男の体をゆっくりと動かして反転させてみれば想像以上の傷が広がっていた。生々しく肉の切れ目から吹き上がる鮮血に、胃の底から気持ちの悪いものが込み上げた。

***

『ナマエ、この世に鬼がいたことを忘れるな』

 鬼のことも、鬼殺隊のことも、決して忘れるなと祖父はいろんなことを教えてくれた。本当はおじいちゃんはこの時代の人間ではなかったこと、死んだと思ったら自分だけ時代を超えてしまって助かったのだと、ぐしゃりと皺を作ってなんとも言えない顔をする祖父の口元から頬にかけてある傷がとても痛ましげに見えた。祖父は悔しげに話していたがナマエと祖母以外の家族は信じてなかった。どこかの物語みたいな話を信じろという方が難しいが、ナマエは祖父のあの顔を決して忘れないし、嘘だとも思わない。

「う…っ……」

 ぼんやりとした意識に引っ張られていきそうだった時、男の呻き声で顔を上げた。勇ましい眉を寄せて、苦しげに男は顔を歪めているがその瞼は固く閉じられたままだ。男の額に貼り付けてあった冷えピタを新しいものに変えて、身体中から吹き出している汗を手拭いで拭いてやる。男の傷は縫う程深くなかったが、傷は多かった。傷口を消毒して、薬を塗ったが、熱が下がるまで安心はできない。男に付き添ってもう三日になる。この時代の人ではないから病院には行けない。ググった知識しかないし、仕事も手につかない。眠ろうと思って寝ようとするとできないくせに、また不意に睡魔がナマエの脳味噌を溶かすように襲ってきた。


『お前は、優しい子だ』

 祖父の大きくて傷だらけの手が頬を撫でるたびにザラザラとして分厚く硬くなった皮膚の感触を感じる。ナマエは祖父の手が好きだった。たくさんの事実を物語っているように勇ましく、男らしい手だからだ。父の手よりもゴツゴツしていて強く、いつも暖かかった。祖父は撫でるたびに『優しい子だ』と口癖のように言っていた。しかしナマエの中でその度にモヤモヤとしたモノが象られていく。

(勘違いしてるよおじいちゃん、私そんなに優しくないし、いい子でもないよ)

 人を助けたこともあるが、見捨てた事もある。祖父の言葉は自分には不釣り合いだ。

「ん…」

 耳元で祖父に呼ばれた気がして瞼をゆっくりと開いた時、正面で夕暮れのような瞳と目が合った。朧げな男の瞳がこちらを捉えているのかいないのか、まだ意識がはっきりしていない虚な瞳であったのに吸い込まれたように動けなくなる。呼吸を忘れていたのか時間の流れというものも一瞬掴めなくなった。今まで固く瞳を閉じていた男の印象がガラリと変わった瞬間であったのには違いない。この人こんな目をするんだと思えば顔の骨格や眉の形、乾燥した唇が男を彩っていくようだった。

「あ、の」

 呆然としてベットに突っ伏していた顔を上げた時、男は既に瞳を閉じていた。規制正しく聞こえる寝息をしばらく聞いていたけれど、再び襲ってきた眠気に逆らう力はほとんど残っていない。面倒さに負けそうになり男が寝ているセミダブルのベットの片隅に身を寄せようかとも一瞬思ったが、もし急に男の意識が戻った際は非常に恥ずかしいのでやめた。フラつく足取りでリビングのソファにナマエは崩れ落ちた。

***


「なんか、夢見てた気がする…」

 目覚めたらリビングにいたが、私は勝手に戻ってきていたのか。夢現であまり覚えていない。まだ辺りは薄暗いがとりあえず男の様子を見にいこうと自室の扉を開けるとやはりギィっと軋む音がしじまに引っ掻くように響く。部屋は少し肌寒くて、男に毛布を掛けてやったか不安になったがちゃんと掛かっていたようだ。ちょうど毛布に赤い日差しが差し込んで朝日が登ろうとしている最中であった。少々寒いだろうが、窓を開けて換気をしようとベットの上にゆっくりと上がる。マットレスが揺れないように気をつけながら男の向こう側に渡ってカーテンと窓を開けた。

「きれい…」

 遠くで赤味を帯びた光が建物を照らしていく。差し込む光も爽やかな空気もまるで生まれたての清潔さに溢れていた。肺が瑞々しく満たされて、生が潤いに変わる瞬間である。昔はよく祖父と一緒に早起きして朝日を拝んだが、久しく見ていなかったのだと実感して、この時間を作るために早起きするのも悪くないとも思った。薄紅色に染まった雲を割って広がる光が心の曇りを割き差し込んでくるようだ。うっとりとしてしまうほど、美しい瞬間であった。

「よもや、これほど美しいものは見たことがない」

 すぐ後ろから聞こえてきた低い声、振り向いた瞬間すぐ側で起き上がっていた男と目が合えば私はまた肉の塊のように動けなくなってしまった。赤みがかった光が彼を照らしているからか、燃えるように髪が一層鮮やかに見える。虚ろだった瞳には光が舞い戻り、奥底からから強く貫くような眼力が恐ろしくも見える。

「すまない、驚かせたな」

 先程と同様思った以上に生き生きしている声に動揺を隠せずナマエは口を開いたが言葉が出てこなかった。

「朧げだが君の世話になったのを覚えている。ありがとう、おかげで助かった」

 口角を上げた男の全身から醸し出される生命力の揺れのような鮮やかな光が眩しくてつい目を細めたくなってしまう。この人本当に人間だろうか、疑ってしまうほど普通の人と違く見えたのだ。いや、圧倒的というべきか。同じ類では表現しきれぬような感覚に鳥肌すら覚えた。新鮮な朝の空気を吸い込んだばかりの肺が再び大きくなって、吐き出す頃にはもう何かが違って見える。これほど鮮烈な夜明けは初めてだった。


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