籠の中




※クロロの妹

 とにかく平穏な毎日が欲しかった。食べ物に困るのも、寝るところを探して彷徨うのも、殺し合うのもうんざりだった。私の周りでは人がよく死んでいたが、私は兄に守られながら生きてきた。人を殺したこともない私の真っ白な手を掴んで、兄は私を大事に大事に育ててくれたのだ。兄には感謝しているが、私は血生臭い日常に嫌気がさした。普通がよかった。強さも、お金も最低限でいい。だから兄の手を離したのだ。

「ナマエ」

 しかし5年ぶりに兄が私の前に現れた。しっとりとして冷たい空気を纏いながら、底光りする黒い瞳が私を見ている。借りているアパートのソファの上で足を組んでいる兄はあの時となんら変わらないように見えた。背も伸びて、あどけなさはないが、実年齢よりも格段に若く見えるその顔や本質のようなものは全く変わっていない。暫く硬直していた私を促すように「まあ座れよ」と自分の隣をぽんぽんと叩いた。

 それ私のソファなんだけどな、と思いつつも逆らわないで兄の隣に腰を沈めた。兄に養われていた頃の私はクズの甘えたガキであったが今では自分で働き、一人で生活していくだけの基盤を築いている。この部屋の家具も自分で買い揃えたものだから愛着があるのだ。

「この生活はどうだった?」
「え?」

 なぜ過去形になるのか、嫌な予感が背筋を駆け抜けていく。勝手にキッチンに置いてあったコーヒーを入れたのであろうか私のお気に入りのカップを片手に兄は薄く笑っていた。

「だから、一人は楽しかったか?」
「…まあ、楽しいよ」
「俺といた時よりも?」
「……兄さんに頼り切りの生活なんて生きている心地がしなかったよ」

 自分の足で歩いていかないと意味がない、と私は兄に言い放って勝手に逃げてきたのだ。それから追われることもなくこの暮らしを築き上げるまでは苦労したが、自分の力でここまできたという事実は私に生きる喜びをくれる。裕福ではないけれど楽しい。

「俺はお前がいないと生きている心地がしないよ」

 ボソリと乾いた言葉が部屋に沈んでいく。何を世迷言を、兄は私がいなくても一人で生きていけるし、私がいない方が楽なはずだ。奪うことにしか快楽を見出せない男が、妹の不在で胸を痛める訳がない。兄はそうゆう男だ。私が生まれてからずっと大事に守ってきてくれたが、それは家族愛なんかではない、自分の所有物に対する独占欲だ。本当に私の幸せを願っているなら今更私の前に現れてこんなことを言わないだろう。

「だからもう茶番は終わりにしてくれ」
「は?茶番?ふざけないでよ、私はここまで一人で頑張って生活してきたの、私は兄さんに飼われる妹には戻らない!」
「…そうか、仕方ないな」

 兄が瞼をゆっくりとおろした瞬間、ポケットに入っていた私の携帯が鳴った。咄嗟に画面を見れば上司からであったので兄の存在を気にせず通話ボタンを押したが、その内容に目を見開く。『明日から来なくていい』という言葉が胸に突き抜けていき、解雇されたのだと理解するのに時間がかかった。

「もう一度聞く。どうだった?俺が与えた生活は」

 携帯が床に落ちて、画面が割れる音がした。兄は相変わらずコーヒーを飲みながら薄く笑っていて、頭が真っ白になっていった。兄の手が腰に回って私の体を引き寄せると、昔感じていた兄の体温を思い出した。兄はよくこうやって隣で私を慰めてくれた。どんな時も。

 後からシャルから聞いたのは、私が犯罪件数の少ない街に行き着くように仕向けたのも、職を得られたのも全てが兄の計らいによるものだったということだ。私は実際何一つ変われてなどいなかったのだ。誰にもぶつけようがない後悔と怒りで頭がおかしくなってしまいそうだ。

「戻ってこいよ、ナマエ」

 兄の薄い唇が吊り上がり嘲笑していた。



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