終末ソウル

 いくつもの夜を越えてあんたに出逢ったんだ、あたし。

野良猫みたいにさ、誰かに笑い飛ばされて終わっていくのもいいって平気な顔で嘯いていたのにさ。

 初めて会ったのは、馬鹿みたいに星が良く見える夜だった。

あの頃はまだ戦争から立ち直ったばかりで、あんまり大きなビルは建ってなかったし、ネオンだって数は多くなかったから空の暗さが街の隅々を支配していた。

 あたしは裸足で夜の街を走っていた。後ろから大きくて汚れた手が、今にもあたしの腕を掴むような気がして、通り過ぎる人の目なんて気にしていられなかった。

思い返してみると、ひどい格好だった。薄いピンクのミニドレスに破れた黒のストッキングに靴を履かないで、髪を振り乱していたから頭がおかしいと判断されても仕方なかった。

 それなのに、あの不細工ときたら嫌がる顔ひとつせずにあたしに声をかけた。

「どうされましたか?」

 金を持ち逃げした恋人のねぐらに飛び込んだはずなのに、部屋にいたのは冴えない風貌のガキだった。少なくともあたしの男は色男で、背が高くて、洒落た話し方をした。

目の前のガキはシャツをズボンの中にしっかり仕舞い込んでいて、そのせいで少し太めの腹が強調されていた。顔は色男とは決して言えなかった。

むしろ逆で、丸い鼻に大きな眼鏡をかけて、ぷっくりとした林檎色の頬をしている。

あんた、何なの?ここに住んでいた男は?

あたしの声はかなり高くて醜かったと思う。焦燥感が込み上げてきてどうにかなりそうだった。

 きょとんとした目であんたは私を見た。

「兄は引っ越しして、今日から僕が住んでいます」

 ああ、逃げられたんだ。弟を生贄にしてあいつは遠くへ逃げた。

たった一言であたしは全てを理解して、へたり込んだ。あいつが奪った金を返さない限り、あたしは店の人間に追われる。

 絶望に沈んでいるところへ追い打ちをかけるように、追手はやって来た。真っ青な顔をしているあたしを取り囲んで、さっきみたいに打ちすえようとする。

あたしは何度もあいつの居場所は知らない、金の行方も知らない、叫んだけど無駄だった。

知らないなら調べろ、彼らが言いたいことは分かっていたけど、本当にあたしには調べる術がなかった。

あいつに弟がいたことすら、たった今知ったぐらいなのに、勝手に出て行った男の行方なんて知るわけがない。

「あの、おいくらですか?」

 不細工の弟がやくざ者相手に何を言ったのか理解出来なかった。

 あたしの値段でも聞いているの?

「兄が持ち逃げしたお金、いくらですか?」

 男たちが金額を言うと、あいつは段ボールから封筒を出してそのまま渡した。

「まずは半分お支払いします。あと半分はもう少し待っていただけませんか?必ずお支払いしますので」

 大きな眼鏡がずり落ちるぐらいのお辞儀をして、不細工は頼んだ。せり出した腹がよく見えてあたしは笑いたい気持ちになった。

 こいつ、何を言ってんの。あたしを部屋から放り出して他人のふりをすればいいじゃない。

弟だなんて口にしなければ男たちから逃げられるのよ。馬鹿やってんじゃないよ。

 金が半分戻って来た男たちは口元をにやつかせて、必ずもう半分を受け取りに来ると、つまらない脅しを残して去って行った。

 あたしは蹴られたお腹が痛くて、しばらく座り込んでいた。

すると不細工が水を持ってきた。

「すみません、お水しかないんです。日用品を買うお金、全部渡してしまったので」

 詳しく聞くと、さきほど男たちに渡した金は生活費だったらしい。何という馬鹿だろう。

 暮していけないわよ、蔑むように言ってやると不細工は笑った。目じりが下がって、口が小さく三日月になる、特徴的な笑顔だった。

「生きていますから大丈夫です」

 馬鹿ね、生きているから辛いんじゃない。

どこまで馬鹿なの。あんたの兄さんは憎らしいぐらい、狡賢かったのに。あたしを騙してやくざが仕切っていた店で働かせて、別のもうけ話に喰いついて、あっさりあたしを捨てた。

自分に繋がる情報なんて、ひとつも残さなかった。強いて言えばあんただろうけど、きっとあんたは兄さんの居所を知らない。

「お金がなくても、僕生きていますから。兄もきっとどこかで生きています。だからいつか再会出来ますよ」

 慰めなんていらないのにさ、本当に馬鹿な不細工。

あたしが立ち上がることすら出来ずに座り込んでいるのは、未来さえ見えない現実に絶望しているから、あんたの兄さんのことなんかどうでもいい。いっそ野垂れ死んでいてくれたら、どんなに胸がすっきりするだろう。

「大丈夫ですか?自宅に帰れますか?」

 何よ、帰れないって言ったら泊めるつもりなわけ?二部屋しかない、こんな貧乏下宿屋に?

あたしの身体を狙っているつもりなら、そう言えばいいのよ。どうせあんたの兄貴に散々安売りされてきた身体なんだし、今さらウブなふりしたって意味がない。

 あんたはあたしの言葉に真っ赤になって絶句してしまった。

 何よ、図星なの?確かに助けられたわけだし、お礼に一晩ぐらいなら相手してやってもいいわ。ただし今夜だけよ。それ以上の安売りは御免よ。

「隣の部屋に寝てください。布団ありますから、僕は見返りとかお礼を求めて言っているのではないんです。だって兄があなたを困らせたから僕が何とかしないと」

 口ごもって小声で、早口であんたは喋る。赤い顔してあたしを見ない。ああ、そうか。あたしみたいな汚い女は嫌なわけね?

「ぼ、僕はあなたみたいな綺麗な人みたことないです、本当です」

 田舎じみた台詞吐かないでよ。安い褒め言葉、使い古されたおべっか、もううんざりなのよ。

 文句を言ったところで、あいつに捨てられたあたしに帰る家なんてなかったから、仕方なく不細工の部屋に泊まった。

布団はせんべい布団で湿気た匂いがしたけど、ひとりでのんびり眠るのは久しぶりだったから、あたしはゆっくり眠った。まるで子どもに戻ったみたいに。

 朝起きると、不細工は新聞配達に出かけていた。

学生をやりながら内職をして金を稼ぐとはっきり宣言して、脂っこそうな額に汗を浮かべて造花を作っていた。

あたしは本気で呆れた。馬鹿じゃないの、逃げればいいでしょ。何度もそう言ってやったのに、粘り強い生真面目さで、勉学と内職に励む不細工は決してあたしを下宿から放り出そうとしなかった。

あたしに帰る家がないことを知っていたから。

 同情なんて糞の足しにもならないわよ、と言ってやったのに、同情じゃなくて責任だからと答えて嫌な顔ひとつしない。

 何だか馬鹿らしくなってあたしは意地を張るのをやめた。

どんなに気取ってスカしてみても、こいつには通用しない。派手な化粧も露出の多い服も必要なくなったあたしはダサい白ブラウスに長いスカートをはいて、八百屋で働き始めた。

金を返さなくてはいけなかったし、生活費が必要だった。いつまでも不細工と二人暮らしだなんて、あたしの女としての誇りが許さなかった。

 何カ月経っても、不細工はあたしに手を出してこなかった。毎晩襖を隔てて、不細工がたてるいびきが聞こえる。

一定の間隔で止まるのが面白くて、ひとり布団の中で忍び笑いをしたり、ねぞうで転がる音を聞いて襖から覗いたり、勉学に励む姿をそっと見たりした。変に安らぐ、ずんぐりとした背中に会ったことのない父親を想ったこともある。

 馬鹿だとか、鈍間とか、愚図とか、散々罵ってもいつも目じりの下がった、口が小さく三日月になる笑顔であたしの罵声を流してしまった。

不細工は兄さんとは、まるで性格が違ってあたしに一度も暴力を振るわず、怒ることもせず、時々兄の所業を詫びてきた。あんたが囚われる問題じゃないのにさ。

いつ放りだしたってあんたが悪いことにはならないのに。図々しく居着いているあたしを邪魔にしたっていいのに。

 一年が過ぎてあたしたちは金を返済した。

やくざ者だったけど、思っていたよりは悪質な連中じゃなかったらしい。それとも口にはしなかったけど、不細工の兄さんの居所を突き止めていたのかもしれない。

 もし、そうだとしても関係ない。もう、あたしにも不細工な弟にもあいつの存在は必要のないものだ。

 金を返してもあたしは不細工の下宿に留まった。金を返し終えても、別の部屋を探す金がなかったからだ。生活費ももっと貯めなくては暮していけない。

散々言い訳を並べて、部屋を占領したあたしを不細工は追い出さなかった。奇妙な同居生活を許してくれた。

 八百屋でもらった残り物で夕食を作って、あたしは時々不細工の帰りを待った。高校から、もしくは小金稼ぎの働きから帰って来る不細工を。

 困った顔が不細工の疲れている時の顔であることを、あたしは理解し始めて簡単な料理をして奴に出してやった。不細工は満面の笑みで子どもみたいに喜んだ。

「あったかいね、あったかい」

 嬉しそうに何度も同じ言葉を繰り返して食事をする不細工を、あたしは頬杖してみていた。他人のこんな顔を見るのは何年ぶりだろう。

他人に何かしてあげたのは何年ぶりだろう。家族ってもしかして、あったかいものなの?

 あたしにも届くものなの?家族は。

 胸が苦しくなってあたしは、布団の中で不細工のいびきをずっと聞いていた。夜が明けなればいいのにと願っていた。何故なのかは分からないけど。

 不細工が中央の大学の合格したのは、暖かな春だった。

このご時世に大学に行けるなんてすごい話だった。あたしみたいに、ろくな学歴のない人間にとっては、おとぎ話みたいに現実味のない話だ。

不細工が下宿から出ていく。金はそこそこ蓄えたし、あたしは新しい部屋を探す。そしてこの下宿の部屋は誰もいなくなる。

あたしが料理を作って誰かを待つことも、誰かと向き合って食卓を囲むことも、誰かのいびきを聞いて安心することも、ずんぐりとした背中を覗き見ることも、笑顔を向けられることも、なくなる。

あたしは訳が分からないほど、頭が痛くなってひとりでこっそり泣いた。知りもしない父親まで思い出して涙が止まらなくて、あたしは発作的に手首を切っていた。

 気がつくとベッドの上で手首に白い包帯が巻いてあった。睡眠薬を飲んだせいで、時間の感覚が途切れていた。不細工が涙目で傍に座っていた。

 ねえ、人間って意外と簡単に死ねないものね。

生き残った自分が馬鹿らしくなってあたしは世間話のように軽く言ってみた。

鈍い音がしてあたしは不細工に平手打ちされたのに、反応が遅れて文句を言えなかった。

「死なないでくれ!」

 不細工はわあわあと泣いた。

 あんた、変よ。数年一緒に住んだだけで、好きだとか惚れただとかあたしたちの間にはなかったじゃない。死なないでくれなんてそんなの馬鹿馬鹿しいほどに白々しいわよ。

ね、だから泣かないでよ。いつ消えてもいい命だって笑い飛ばしてよ。

そうじゃないと、あたし勘違いしちゃう。あたしの命は価値があるものだって、あたしにも明るい未来があるかもしれないって。

だから笑い飛ばしてよ、馬鹿な女だって。生きている意味なんかないって。笑ってよ。

 不細工は笑わなかった。涙を流してあたしを見た。

見つめてくれた。生まれて初めて、しっかりと正面からあたしを見てくれた。赤い鼻が余計に不細工に見える。

「僕が信じる未来にあなたがいるよ。幸せなあなたがいるから」

 ――絶望なんかしなくていいよ。

 あたしが予感する未来と、あんたが信じる未来がさ、ねえ、もしもひとつになるとしたら。あたし信じていいのかな、あたしの人生を。

 病院からの帰り道、星空が広がっていた。街の隅々まで降りてきた夜の闇は、星空の明るさにたじろぐようになりを潜めている。

 あんたにダンスを教えてあげる。少しぐらいは踊れないと女は寄ってこないよ。

 柔らかくて大きな手をあたしは無理に握って、店で歌った覚えのあるジャズをハミングしながらステップを踏む。

肉の多い身体が一生懸命に動くから、余計に肉が揺れて、ズボンに仕舞っているシャツがはみ出した。不格好な姿にあたしは笑いが止まらなくなる。

星空がライトになって、あたしと、どうしようもない不細工のダンスを照らしだす。

華麗なステップなんてまるで踏めなくて、転びかける不細工にあたしは笑顔になった。

 一体どれぐらいぶりに素直に笑ったのだろう。

愛想でもなくて演技でもなくて、あたしは笑いたいから笑っている。

あんたは最高に面白いのよ、あんたがいるとあたしは未来を考えたくなる。あんたのいびきを聞いているとあたしは、夜は安らぎをくれるものだと思いだせる。

あんたのビンタはあたしに命がある嬉しさを教えてくれる。

 星空の下で躍りながら、あたしはあんたに約束をした。

あたしはもう二度と手首を切ったりしない、だからあんたはとっとと大学に行きなさい。間違っても一緒に来てくれなんて言わないでよ。

桜が散る間際、似合わない詰襟姿のあんたは列車に乗り込んだ。

これからどうするのかなんて、あたしにじゃなくて自分に聞いた方がいいわよ。新しい土地で生活するっていうのに抜けているのね。

ね、あんたはこれから立派に生きるのよ。あたしは真っ当な生活に戻るつもりだけど、いつまで真っ当でいられるかは分からない。

でも分かることはあるのよ。たとえどんなに堕落してもあたしは、終末にはあんたのところへ帰る。その時はあんたの恋人になってやるわ。

 終末の恋人に。そして星空の下で躍るのよ。

 終末ワルツを。



                   <了>






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