izobenα

 憂鬱な雨空に紅美はため息を吐いた。
もう何日も雨が続いており、洗濯物は乾かずに溜まっていく一方だった。
綺麗好きな紅美にはストレスなのだが、コインランドリーへ持っていく気にもなれずに放置している。
最近、自分が無気力になっているのを自分自身でも感じていた。
 派手な赤のペデキュアをミュールから覗かせながら、紅美はバイト先までの道を歩く。雨水のたまった歩道を歩くのなら足は出していれば被害が少なくて済む、紅美はあえて露出の多いミュールと短いパンツを履いていた。
しかし、そんな服装が軽薄そうな女に見えるのも承知していた。声をかけてくる軽そうな男を適当にあしらいながら、紅美は先月失踪した男について考えを巡らせる。
 本当に突然の失踪だった。彼が姿を消した理由は一カ月経った今でも判明しない。
彼と親しかった友人たちと集まって話をしても、失踪する理由はひとつだって浮かばなかった。それほどまでに『失踪』という言葉が似合わない男だった。
彼とはバンドを組んでいた。紅美はヴォーカルを担当しており、彼はよく彼女のハスキーボイスを褒めた。
『震えるような残酷の音色だ』
 褒め言葉だとは最初おもわなかった。それまでヴォーカルを担当していた彼から、パートを奪ってしまう形でバンドに入ったので皮肉を言われたのだと勘違いした。
だが一緒の時間を過ごしていくうちに、皮肉や嫉妬を言うような男ではないと知った。彼はいつも正々堂々で言いたいことがあれば我慢しない。熱い男ではないけれど冷めた男でもなかった。
酔っぱらうと喧嘩をする癖があったが、常に負けなしだった。学生時代にでも鍛えたのかと訊きたくなるぐらい、俊敏な動きで攻撃をかわし、重い一撃で相手を沈めた。
何故、喧嘩が強いのかと一度だけ訊いたとき、男は笑って『生まれつきだ』と嘯いた。
彼が好きなのか、と仲間内で訊かれたが答えは『NO』だ。
 恋愛の好きではない。
水玉の傘を揺らしながら紅美は男の容姿と言動を脳裏に再現する。
いつも堂々としていて、自分の意見を曲げず、弱いものに優しく、自信に溢れて、自分の歩く道を迷わずに進んでいた。
彼のようになりたい。
紅美は彼の姿を思い出すたび、強い憧れを覚える。人に流されるようにして東京に出てきたが、実家の旅館の後継ぎになる自信がなかったから逃げただけなのだ。
旅館といっても歴史があるだけの古い旅館で大きいわけではない。それでも憶病な彼女には耐えられなかった。
東京に出て来てやりたいことがあったわけではない紅美は、生活のために飲食店でバイトをして暮している。その店に彼とバンドの仲間がよく来ており、ライヴに誘われて見に行ったのが交流の始まりだった。
紅美を圧倒したのはギターを自信満々にかき鳴らす彼の姿だった。吹奏楽部で鍛えた紅美の耳は、彼のギターの音色が正確であるのを聞きとっていた。
それから夢中になってライヴに通い、気がつけばヴォーカルとしてスカウトされた。
 あのとき、彼はどんな顔をしていただろうか。
傘を回しながら紅美は失踪した男の顔を思い出そうした。
 路地裏へ入り、店までの近道を歩き出すと正面から誰かが歩いていくるのが見えた。
雨の日に人通りがない道で誰かに遭遇するのは気味が悪いと感じた紅美は、早足で道を抜けようしたが目の前から来た男に視線を奪われる。雨に濡れた花の香りが鼻をくすぐった。
「イゾベン……?」
 無意識に傘を落とした。
長い髪を無造作に束ね、黒いTシャツ、派手な柄パンツの服装は彼がよくしていたスタイルだ。
だが彼の顔は面影をとどめないほどに崩れていた。まさに『崩れている』としか形容できない、頬の肉が削げ、片目は暗い空洞になり、額の皮膚が剥がれている。
ゾンビ映画に出てくるゾンビのような顔になっている彼を紅美は凝視した。
「おお、ベニ。相変わらず赤い髪してんのか」
 にやりと笑うと露出した筋肉が引き攣れて、さらに凄い形相になるのだが不思議と紅美は怖くなかった。
むしろ変わり果てた姿になった彼が自分を、いつも通りのあだ名で呼んでくれたのが嬉しかった。
「イゾベン、どうしちゃったの?その顔?」
「ああ、これか。何かしらねえがこうなった」
「説明になってないよ」
 見た目はゾンビでも中身は呑気なイゾベンのままで紅美は笑ってしまう。
「ゾンビの外見になっても中身は変わらないのね」
「ベニこそ派手な赤髪してるくせに中身はお嬢さんのままだろうが」
 イゾベンは紅美を『お嬢さん』だという。
お酒は付き合いでしか飲まないし、煙草もギャンブルもしない。男遊びをするわけでもない。周囲の連中は犯罪すれすれの趣味を楽しんでいるが、紅美は本来の真面目な性格のおかげで引きずり込まれずに済んでいる。
堅物の紅美が友人たちから浮かずにいたのはイゾベンの存在が大きかった。彼も非合法な趣味はないのだが、彼の存在自体が危険だった。
いつ何を仕出かすか分からない危険なイゾベンに周囲は陰口を叩かず、彼に比べれば自分達の趣味など可愛いものだと笑っていた。
 危険な男は突如姿を消し、再び出会うと容姿が変わっていた。
驚くべきなのだろうが、イゾベンならそういうこともあるかもしれないと納得してしまう。
「ねえ、イゾベン。いま楽しい?」
「何だ、その漠然とした質問はよう」
「だって、イゾベンはいつも堂々としていて毎日を楽しんでいるように思えたから」
 紅美は足元の雨水を蹴り上がる。
雨に打たれているイゾベンは首を傾げ(露出した筋肉が見えた)、口をひらいた。
「俺は後悔が嫌いなんだよ。あの時ああしていりゃ良かったなんてよう、考えても仕方ねえ。夢に見るほど嫌いなんだよ」
 苦いものを口に入れたようにイゾベンは眉を寄せる。
言葉の言い回しから彼に夢に見るほど後悔している過去があるのを知り、紅美は初めて驚きを感じた。ゾンビになった彼の姿よりも彼が後悔している過去がある方がよほど驚くべきことだった。
「だから俺はもう後悔するような生き方はしねえ。今、生きていて自分の意思があるなら、俺は好きなようにやりたいように生きる。いつ意識がプッツリ途切れてもいいようにな」
 ケラケラと笑うイゾベンに、つられて紅美は笑おうとしたが涙が零れて慌てた。
何故か涙が流れてくる、東京に出て来てどんなに辛い目に遭い、苦労しても流れなかった涙が溢れてくる。
「あはは、何でだろうね。イゾベンと話していると泣けてくるよ」
「ベニはよう、他にやりたいことがあるんだろ。だから俺の話で泣いちまうんだ」
「え……?」
 片方だけの瞳が紅美を捉える。眼差しに魅入られたように紅美も見つめ返した。
「変だね……もしかしてイゾベン、幻なの?あたしが見たいもの、聞きたいものを勝手に創り出しちゃったのかな」
「俺をお前の妄想にすんなよ。俺はマジで存在してるっつうの」
 皮膚がところどころ剥がれたイゾベンの手が紅美の頬に触れた。体温は感じないが紅美は安らぎを覚える。
「そうだ、あたし、お兄ちゃんが欲しいって思ってたんだ。長男がいればあたしが旅館を継がなくていいのにって考えていたからなんだけど。今は違う……話を聞いてくれる人が欲しかったの」
 イゾベンの手を握るとざらついた感触がした。
「お前、よく俺に触れるなあ。大抵の奴らは顔を見りゃ逃げてくし、触ったら自分もゾンビになるかもしれねえってんで触る奴もいねえぞ」
「ははっ、イゾベンを触ってゾンビになったら面白いね。人類ゾンビ計画だ」
「へへへ」
 紅美の軽口にイゾベンは笑い声をあげる。懐かしい笑い声に紅美は微笑む。
笑っているイゾベンの胸に紅美は抱きついた。
「おい、俺は腐ってるからくせえぞ」
「臭くないよ。それに腐ってないし、イゾベンは変わってない……。腐っていたのはあたしの方だよ」
 不思議だが本当にイゾベンからは腐った肉の匂いがしなかった。ゾンビなら腐敗臭がするはずなのに。
「もしかしてイゾベンは新人類になったのかもしれないね。人間の新形態だよ」
「ゾンビがか?」
「だって腐敗臭がしないもん、厳密にはゾンビじゃないのよ、きっと」
 ぱっと顔を上げてイゾベンを見上げる。皮膚が剥がれて片方の眼球がない男の胸に抱きついている自分に自分で呆れながら、それでもイゾベンに会えてよかったと心から想った。
「あたし、地元に帰って旅館を継ぐ。きちんとした女将になる自信がなくて、失敗するのが怖くて逃げてきただけなんだって、いま分かったから」
「今かよ」
「そうよ、今よ。あたし意識がプッツリ途切れたら、絶対後悔するもん。こんなことになるなら旅館を継いで親孝行したかったって思うから。夢にみるほど後悔したくないもんね」
 イゾベンから身体を離し、にっと笑ってみせると大きな手で頭を撫でられた。
「おう、いっちょかましてやれ。今時の若女将は肝っ玉が据わってるぜってな。何せゾンビに抱きついてきた女なんだからよ」
 ずっと古き良き女将にならなくてはいけないと思いこんでいた紅美は、目から鱗が落ちた気持ちだった。
「そうか、あたしらしい女将になればいいんだよね」
「当たり前だろ。他の誰かになれるわけねえんだからよ、自分の長所を信じるしかねえ」
「ありがとう、イゾベン。あんたに会えて良かった。もし気が向いたら旅館に遊びに来てよ、宿代はサービスしてあげるから」
 皮膚のない筋肉が露出したイゾベンの手をぎゅうと握り締める。
「ゾンビが来たらヤベエんじゃねえの?」
「何で?面白いじゃん。ゾンビも夢中になる温泉旅館なんてさ」
「そりゃあ面白いかもな」
 腹を抱えて笑い合ってから、紅美は落ちていた傘を拾い、イゾベンにとびっきりの笑顔を向ける。
「またね、イゾベン」
「ああ」
 軽く手を上げて挨拶した彼を背中に紅美は歩き出した。
イゾベンが立ち去って行く姿を黙って見ている自信がなかった。
彼女は予感していた。
彼には、もう二度と会えないかもしれない、これが最後になるかもしれない。
でも『さよなら』だけは言いたくなかった。
「また会えるよね……あたし頑張るから。だからまた会えるよね」
 紅美は雨空を見上げて呟いた。


 長い梅雨の日、雨に濡れた花の香りするゾンビに出会った。



                            〈了〉







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