小雨そぼふる山中にて。

 小雨そぼふる――……


 山の天気は変わりやすいと散々言われていたのに、うっかり失念していた。
ふと空を見上げたときには雨粒が頬に落ちてきて慌てて下山しようと思ったが、ぬかるんだ道に足を取られて軽く挫いてしまった。
これでは急いで山道を下るのは無理だろうと判断した私は、ひときわ大きな大木の影に逃げ込んだ。
自然の力は偉大で大人である私が雨宿りしても、まだ余裕があるほど大木の下は広範囲が濡れずにすんでいる。
 大地から飛び出している太い根に腰をおろして、ひとつため息をついた。
夕方には帰りますと居候させてもらっている神社の神主・名代さんに言ったのに、山の天気は変わりやすいと注意されていたのに、結局ずぶ濡れになったあげく雨が上がるまで帰れそうにない。名代さんに迷惑をかけてしまうのが心苦しい。
 そもそも信仰心というものが薄い私が、名代さんが神主をつとめる神社に居候させてもらうようになったのも、名代さんからの注意を私が破り、とある怪異につけ狙われるようになってしまったせいなのだ。
私は名代さんに呆れられるような行動しかできないのかと、いい年をして情けなくなる。
 懐に忍ばせている名代さんの神社・O神社謹製のお守りを確認する。いつでも怪異への恐怖が先に立つので、遭難するかもしれない心配よりもお守りがあるかどうかの心配をしてしまう。
怪異に襲われてからもう二年あまりの時が経とうとしている今でも、私は怯えている。ましてやこんな山奥で一人ぼっちで雨宿りすることになるとは。心細さがさらに募る。
 憶病で小心者なので、あまり山には入らないようにしていたのだが、今日はとてもよく晴れていて青天に誘われるように入山してしまった。
O神社近くの山は有名な山に繋がる小山で、夏になると観光客が登山に来る。
 一応、小説家の端くれである私は連載小説に煮詰まっており、何か気分転換したくなって、名代さんに山に登ってみたいと相談した。
すると名代さんはお守りとおにぎりを渡してくれ、くれぐれも迷うほど山奥へ行かないように、天気に気をつけるようにと私に注意してから送り出してくれた。
名代さんは怪異から私を守ってくれた命の恩人であり、家族を幼い頃に失った私にとって祖父や父のように思える大切な人である。
息子のいない彼の息子気どりというのは些か厚かましいが、少なくとも近しい友ぐらいには思ってもらえたら嬉しい限りだ。
 くじいた脚がしくしくと痛み出し、私は膝に顔をつけて休息姿勢をとった。
下山したらすぐに名代さんに謝ろう。約束を破ってばかりでは近しい友も息子気どりもあったものではない。何と言って謝ろうか……新作の案を練っていたら集中し過ぎて時間を忘れていたのが正直なところだが、うっかり者の印象を強めるだけだ。
もやもやと悩んでいると、カサリと幽かに音がして私は文字通り飛び上がった。
「おやおや、驚かせてしまいましたかの」
 音のあとに落ち着いた声がして、茂みの中から僧侶の服装をした米寿を迎えていそうなほど高齢の老人が現れた。
私は咄嗟にお守りを握って彼と距離を取った。山奥、雨降り、突然現れた老人。
頭の中で怪異の二文字が躍る。
「貴方も雨宿りですかな。拙僧は旅の者でしてな、目的の寺へ行く途中ですよ。ご安心なされ、危害を加える存在ではありませぬ」
 あまりにも私が怯えていたせいだろう、老人はことさらゆっくりと話して木の根に腰をおろして、私に微笑みかけた。
過剰な自分の反応が恥ずかしくなり、私は照れ笑いをしてまた根に腰をおろした。
「すみません、山奥でひとり雨宿りなんて初めての体験でつい神経が過敏になっていたようです」
 老人は口を丸くして笑ってくれた。
「ほほほっ、山奥は心細くなりますからの。あなたも何処かへ行く途中ですかな?」
「いえ、下山しようと思っていたのですが雨が降ってきてしまって諦めたところです」
 なるほど、と老人が頷く。雨の勢いは強まりはしないが弱まりもしない。小雨といったところか。
「ところで、何か食べ物を持っていませんかの?」
 老僧がお腹をさすってたずねてきた。しげしげと眺めてみると、老僧は簡単な荷物も持ってないようだ。
まさか身一つで旅をしているのだろうか。まるで昔の修行僧みたいだ。
 私はリュックサックを探して、おにぎりを取り出して渡した。
「冷えてしまっていますけど、よろしければどうぞ」
 雨に打たれたせいでご飯が湿っていなければよいがと思っていると、老僧はにこにこと笑いながら受け取ってくれた。
「馳走になりますぞ、お若いの」
 中年を迎えて若いといわれたことが何やら照れくさくて、私は黙って頷いた。確かに米寿を向かえていそうなご老人から見れば、私はまだまだ若造なのだろう。
「ふうむ、粟とは違う味じゃなあ」
「粟ですか」
 随分懐かしい食べ物だなと感心していると、老人は遠く下界の方へ視線を向けている。
「近頃はめっきり山に来る人も減りましたな。昔は歩けば何処かで必ず、人に出会ったものだが……今は山に人はおらぬ。時代が変わりましたのう」
「そうですね。人間の居住地は完全に山の外になりました。昔は山に住まう人々がいましたが、気が付けばいなくなりました」
 彼らは何処へ行ったのだろうと、しみじみ考えていると老僧が腰を上げた。
「では拙僧はそろそろ参りますかの。馳走になりましたな、お若いの」
「お気をつけて」
 小さな背中が雨の中へ消えて行く。
ぼんやりと背中を見送っていたら、雨は止んでいた。
「小雨がやんだな」
 私は急いで下山を開始した。


 神社へ戻り、名代さんに謝ってから山で出会った老僧の話をすると彼は何ともいえない複雑な表情をした。笑っているような、驚いているような、呆れているような。
「いや、本当に好かれる人だ」
「何の話です?」
 名代さんは困った顔で頬をかいた。
「ううん、怪異にまだ怯えている貴方に話すのも気が引けるんだが……雨の夜に修験道の霊山山中に現れては、行者に物乞いをする僧の姿をした妖怪がいてな」
 私は血の気が引いていくのを感じた。
「『東北怪談の旅』の著書の中で、寛文十一年に雨の降る津軽街道の山中で旅人に粟をねだる妖怪について書かれている文献があって」
 背中に嫌な汗が流れていく。
「鳥山石燕が著した『今昔百鬼拾遺』に出てくるのと此方の文献に出てくるのは、ちと違うらしいのだが」
 怪談を書く身でありながら過去に怪異に襲われて以来、私には困った癖が出来た。
恐ろしい話を聞くと気絶してしまうのだ。
名代さんの声が遠くから聞こえてくる。


『小雨坊ハ 雨そぼふる夜、大みねかつらぎの山中に徘徊して 斉料をこふとなん』
             『今昔百鬼拾遺・鳥山石燕』



 私は怪異に好かれる性質になったのかもしれない。
ただ、山に人がいなくなったと話す老僧の横顔は寂しそうだったと遠のく意識の中で思い出していた。



                    〈了〉


企画小説微糖様:『小雨』提出作品



作者:藤森 凛


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