泣き虫と青い鳥


02 泣き虫と学園長



「なるほど…」

目の前の座布団に座る老人がふむふむと頷く。銀色のおかっぱ頭が悩まし気に傾いて、私は眉を下げる。

ぶら下げられたまま渡り廊下のようなところを通ってこの離れまで連れてこられたのは10分ほど前のことだ。私を連行してきた二人は、私の少し後ろに並んで正座している。通されたのが畳の和室だったので、私も同じく正座だ。そろそろ足が痺れて、時折動かす爪先の感覚がなくなってきている。

彼らが学園長先生と呼んだのは、この老人のことのようだった。学園長というのだからここは学校なのだろう。好々爺のように見える老人は私を見て少し驚いたように片目を見開いたけれど、すぐに和やかな表情で座布団を勧めてくれた。
学園長先生は着物姿だった。赤い袖のない羽織と、袴を身に着けている。横に杖が置いてあるから、普段外ではそれを使用しているのかもしれない。その様子から結構なご高齢に見えた。「まずは名前から聞こうかの」と話を促してくれたので、私は戸惑いながらも名乗って頭を下げた。学園長先生は「名前さんじゃな。よろしく」と親し気に握手を求めてから、「何があったのか話してくれるかの」と言った。そうして私は促されるまま、ここへ至るまでの話をしたのだった。

「自室の押入れに入ったはずが、出てきたら彼らの部屋じゃった、ということじゃな?」
「…はい」
「不思議なこともあるもんじゃのう」

学園長先生はうーむ、と唸って首を傾げる。私は泣きそうになりながら肩を竦めた。自分でも荒唐無稽な話だと思うから、信じてもらえるはずがない。けれどもそれ以外に説明することができなかった。

「あの、ここはどこなんでしょう?私、西町にある寮に住んでるんですが、そんなに遠くない場所なんでしょうか」

膝の上に乗せた拳をぎゅっと握って、反対に問いかける。
この部屋を訪れるまでの道のりを見た限り、ここは随分広い日本家屋のようだった。今年の4月に入学すると同時に寮へ入ったから、まだ私はあまり近隣の地理に詳しくない。けれど、少なくとも学校から寮までの近辺にこんなに広い建物があるだなんて話は聞いたことがなかった。ましてや、こんな学校があるだなんて初耳だった。
だとしたら私はスーパーからの帰り道をどう間違えてしまったのだろう。遠くまで来てしまったのだろうか。外にいた時間的にもそこまで遠くに来たはずはないけれど、実際こうして全然別の場所に辿り着いてしまっているのだから自分の認識なんて信用できなかった。

学園長先生は私の言葉に、更に首を傾けた。ニシマチ?と繰り返された言葉に、背を汗が落ちていくのが分かった。

「この学園の周りはほぼ山じゃ」
「……え、」
「3つほど超えたところに町があるが、そういう名前の町ではないのう」

喉が乾いて張り付く。それはどういう、と言葉を紡ごうとしたのに上手く声が出なかった。心臓が大きく脈を打つ。それは、俄かには信じられない言葉だった。

「お前の言うようにこの学園に迷い込んでくるのはありえない」

それまでずっと黙って私と学園長先生の話を聞いていた背後の男の子が口を開いた。振り返ると、それは私を最初に捕まえた男の子だった。真ん丸な目で真っ直ぐに見つめられて、私は口を噤んだ。

「この辺りに西町なんて町はないし、この学園は山の中にあるから、間違えてここに辿り着くなんてありえない」

でも、と反論しようとしたけれどできなかった。絡みつく唾を嚥下して、私は視線を落とす。おかしいことばかりで、もうこれは夢だとしか思えない。自分でもそうなのだから、確固たる理由を持って否定してくる相手を説得できるとも思えなかった。

「ところで、名前さんは随分と珍しい着物を着ておるの」

話を変えるように正面の学園長先生が言った。私は視線を前に戻してから、自分の姿を見下ろす。毎日来ている高校の夏服は、上が白でスカートが紺の一般的なセーラー服だった。赤いスカーフは雨に濡れてから少し乾いたので所々斑に濃く染まっているけれど、別段珍しい恰好ではないと思う。
珍しいというのなら、彼らの方がよほど珍しい恰好をしていた。学園長先生はご高齢のようだから着物でもおかしくないとしても、後ろの二人はまるで忍者のような服装だ。何か文化祭とか、そういうイベントの準備中なのかもしれない。そんな姿の人達に珍しいと言われる筋合いはなかった。

「…これは、学校の制服なので。そんなにおかしな恰好でもないと思うんです、けど」
「少なくともわしは初めて見る。南蛮の着物かの」
「ナンバン…?」

聞き慣れない単語を拾って、今度は私が首を傾げる番だった。
何番、何晩、と頭の中で変換していって、南蛮に辿り着く。ひやりと冷たい汗がこめかみを伝った。いや、まさか。そんな非現実的なことがあるはずがない。思い浮かんだ考えを首を振って振り払う。けれども学園長先生は、私の様子を見て怪訝そうな表情を浮かべた。

「遠く海を越えた先の国じゃが、知らんか?」

知っている。けれども、本当にその意味でその言葉を使用している人を、実際に見たことがなかった。あるとすればそれは例えば、時代劇の中なんかで。

―――からかわれて、いるんだ。

私は正座した膝の上でぎゅっと拳を握った。そうでなければ新手のドッキリか。こんな大掛かりな場所でわざわざ一介の女子高生に仕掛ける意図は分からないけれど、そういう何かの企画なのかもしれない。もしくは、間違って迷い込んだ私をただ面白半分にからかっているのかもしれなかった。

―――ここを、出なくちゃ。

握った拳に力を込めて、私は眉間に皺を寄せた。自分でもおかしなほど心臓が音を立てている。思考が空転しようとするのを懸命に押さえ込んだ。
ただからかわれているだけならまだ良い。例えばここが変な宗教施設だったりするならば、可能な限り速やかにここを出なければいけない。唇を引き結んで小さく息を吸ってから、私は正面の老人を見つめた。あの、と上げた声に、老人は先を促すよう首を傾ける。

「この学校の外を、見せてほしいんですが」

震える声で言うと、学園長先生はふむ、と唸った。殆ど閉じたような細い目がまた片目だけ開かれる。その視線が私を通り過ぎたのを感じて振り向くと、私の背後にいた男の子が腰を上げるところだった。

「七松小平太」
「はい」
「気のすむまで連れてってやりなさい」
「はい!」

七松と呼ばれた彼はぱっと私の傍で屈み込んだ。と思った瞬間、重力に逆らう感覚と浮遊感が襲って私は目を瞬いた。



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