泣き虫と青い鳥


00 泣き虫と雷



明日から夏休み、という日だった。

その日は朝からよく晴れていた。天気予報では局地的な雨―――所謂ゲリラ豪雨に注意と言われていたけれど、学校へ行って終業式に出て、帰りに空を見上げた時にはまだ雲一つない青空だったはずだ。一応折り畳み傘を持って出はしたが、結局使わなかった。
何となく拍子抜けした感じで私は昼食の買い物をしに学校から徒歩10分程度のスーパーへ向かった。暑くて色々と面倒だったので、とりあえずそうめんにでもしようと考えていた。おかずをどうしようか迷ったけれど、暑さのせいかそんなに食欲があるわけでもなかったので乾麺のそうめんだけをかごに入れた。
会計を済ませて外に出ると、5分10分程度スーパーの中にいた間に、空は薄暗くなっていた。一瞬遠くでフラッシュのように雲が光って、私はびくりと肩を震わせた。そうして、足早に寮までの道を歩き始めた。

私は雷が苦手だった。高校生にもなってと自分でも思うけれど、それでも苦手なものは苦手なのだ。しかもあれ当たると死ぬし。本当に怖い。

スーパーから寮までは10分程度だ。雷の音はまだ聞こえない。光ったのはほんの一瞬だったし、きっとまだ遠いのだろう。けれども、積乱雲の動きが想像以上に速いことは昨年散々外で降られて学んでいた。大急ぎで帰って、万全の状態で迎え撃たねばならない。

「…っもう降ってきた!」

寮まであと少しというところで、私は駆けだした。ぽつぽつと当たり始めた雨粒は大きい。雷云々よりも先にびしょ濡れになってしまう。幸い、全力で走れば1分程度で寮までは帰りつける。折り畳み傘を使うかどうかについて逡巡したけれど、鞄から出している分外にいる時間が長くなるなら、走った方が早いと判断できる距離だった。
右手に下げたスーパーの袋がカシャカシャと軽い音を立てる。私が一歩を踏み出すごとに、大きく跳ねた。

寮の入り口に滑り込んだところで、背後で再び空が光った。今度は先程の比ではなかった。次いで幾分も置かずゴロゴロという地を這うような音が聞こえて私は跳ね上がる。急いで靴を脱いで、「廊下は走らない」と書いてある張り紙の目の前を全速力で駆け抜ける。
私の部屋は1階の端から3番目だった。この時間はまだ皆終業式の名残で学校にいるのか、寮の薄い壁をもってしても建物には静寂が満ちていた。電気はついているけれど、空の暗さも相まって全体的にどんよりと薄暗い。濡れたスーパーの袋を手に、涙目になりながら私は鍵を開け自室に駆け込んだ。後ろ手に鍵を閉めなおしたところで、今度は正面のベランダに面した窓が光った。

「…っ!」

間髪入れず空を裂くような爆発音が聞こえた。再び跳ね上がった私はへなへなとその場に座り込んだ。体がガタガタと大げさなまでに震えていて力が入らなかった。けれどもこのままこうして呆けているわけにはいかない。既に外はバケツどころかプールをひっくり返したような土砂降り。そうして先程の劈くような轟音の余韻に交じって聞こえる小さな音。絶対に一発だけじゃ済まない。この後もう何発か来るはずだ。

私は肩にかけていた通学鞄をずるずるとおろして、右手首にスーパーの袋を括り付けたまま、今朝畳んだ布団の山の上から薄いタオルケットを引っ掴んだ。それをばさりとマントのように広げて頭から被ったところで、今度は光と音が同時に窓の外で鳴り響いた。

「…っきゃあ!」

思わず漏れた悲鳴を恥ずかしく思う余裕もなかった。這う這うの体で押入れの戸を開けて、中の狭い空間に入り込む。そのまま壁に寄り添うように体育座りをして、私は勢いよく戸を閉めた。

小さな頃から雷を凌ぐ為に避難していたのが押入れだ。きっかけを聞かれればあまりに古い記憶なので定かではないが、恐らく『広い場所にいると雷が落ちる』という話を曲解したのだろうと母が言っていた。実家にいる時も大抵ゴロゴロと響く音を聞けば押入れに入り込んでいたし、自室の押入れにはすぐに避難できる用のスペースを作っていた。そしてそれは、寮生活となった高校生になってからも当たり前の習慣として続いている。

狭い暗い空間で、被ったタオルケットの上から耳を塞いだ。カシャリと音を立てたのは右手に下げたままだったスーパーの袋だろう。けれども今更それをわざわざ外す気にはなれなかった。昼食も含め、全てはここを安全に脱出出来てからの話だ。

―――早くどっか行け早くどっか行け…!

目を瞑って耳を塞いだまま、一心不乱に祈る。相手は俄雨。ゲリラ豪雨は一つ処に留まらない。すぐにどこかへ移動するだろう。だからそれまで、安全な押入れの中でひたすら待っていればいい。

そのまま、どれくらいの時間が経ったのか分からない。
ふと気が付くと、ぎゅっと耳に押し付けた手のひらの隙間から聞こえていた低い音はなくなっていた。フェイントが来ても動揺しないよう、そうっと手を外していく。押入れのふすま1枚と部屋の窓ガラス1枚隔てた外の音がしない。どうやら、雷ごと雨も移動したようだった。
ほっと息を吐いて、私は目の前の戸に手をかけた。もう外へ出ても大丈夫だろう。安心したらお腹が空いてきた。とりあえずそうめんを茹でるためのお湯を沸かそうか。

「お?」
「…え?」

そしてふすまを開けた先には、知らない男の子が座っていた。




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