時の舟は揺れて



「そろそろ、行こか」

ギンが普段と同じ何でもないような声で言ったので、私はただ頷いた。
窓の外を見ると、月が傾き始めていた。遠く風に乗って何かが壊れる音が聞こえる。静かで優しい私の世界。

「ナマエ?」

部屋の入り口でギンが私の名前を呼んだ。振り返って「うん」と頷いてから、もう一度私は自分の部屋に視線を戻した。
白い壁に囲まれたがらんとした部屋。たった一つの窓から月明りが差していて、それがぼんやりと全体を照らしている。寝台の上に掛けられたシーツは、さっきギンが座っていた形に少し歪んでいた。それだけが、ここが私の部屋であるという証のようだった。

誰かが戦う音が聞こえている。霊圧がぶつかる気配。私は霊圧を読むのもへたくそだから、どれが誰のものかよくわからない。けれども、ぶつかる霊圧の中にたった一つ覚えているものがある。ぎゅっと拳を握った。心配することも悲しむことも失礼なことだと知っていた。

「さよなら」

私は一言、小さく呟いて踵を返した。別れの言葉は、静かな部屋の闇に溶けてすぐに消えた。

+++

ギンに連れられてぼんやりと歩いた。彼の細い指先が私の指先を包み込んでいる。一歩遅れれば離れてしまいそうなほど、殆ど触れているだけだった。けれども彼はゆっくり歩くので、私の歩幅でもそれが離れてしまうことはなかった。
どこを歩いているのかは途中でよく分からなくなったけれど、向かっている先は何となくわかった。虚夜宮の真ん中の方。玉座の間の方だ。多分、藍染サマがそこにいるのだろうと思う。

道すがらある窓の外から、月明りと一緒に時折音が落ちてくる。遠い音だったそれが、少しずつ近づいてくるようだった。爆発するような音、崩れる音、剣と剣がぶつかり合う甲高い音、そして。

「ギン、」
「んー?」
「…呼んだだけ」

何となく彼の名前を口にすると、彼は振り返らずに軽く返事をした。いつも通りのその様子に、少しだけほっとした自分がいた。ああ、私は多分緊張しているのかもしれない。

音が聞こえる。霊圧がぶつかる音。誰かの怒鳴り声。そして、ずっと聞こえているきらきらとした儚い音。多分、ギンにも聞こえていない音。壊れていく音。

「ギン」
「んー?」
「……。呼んだ、だけ」

ギンは歩く足はそのままに、きょとんと私を振り返った。彼と繋いでいる手ばかり見ていた私は顔を上げられず、引かれるままに歩くだけだった。けれども彼がすぐ足を止めたので、私はその場で立ち止まった。彼を見上げようか迷ったけれど、情けない顔を見られてしまいそうでできなかった。

「ナマエ」
「……」
「ええ子ええ子」

ギンは私の頭をくしゃくしゃと撫でた。子ども扱いしないでほしいと言いたかったけれど、その手のひらの感触がとても優しかったので、私は目を閉じてされるがままになっていた。

ずっと音が聞こえている。静かな優しい私の世界が、壊れていく音。

ギンは再び歩き始めた。すぐに解けてしまいそうな指先が怖くて、私はまた引かれるがままに足を動かし始めた。
prev next