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終末の音


一瞬、息が止まるかと思った。
遠くなった綾瀬川五席の霊圧が、倒されて小さくなったのではなく本当に『遠く』なったのだと理解して、私は息を詰めながら空を蹴る。この感覚には覚えがあった。東仙隊長の閻魔蟋蟀だ。東仙隊長自身の霊圧は藍染隊長の傍から動いていないから、恐らくはそういう高密度の霊子で出来た何かに覆い隠されたか取り込まれたのだろう。眉を顰めながら、斬魄刀に手を掛けて一息に抜き去る。

「……飛べ、杜鵑草」

手の中の彼女は、すぐさまその姿を変えて私の右側に収まった。解放した彼女は精神世界で会う彼女同様、私と殆ど背丈が変わらない。その花びらをくるくる回しながら、いつでも戦えるようにと私は気を張り詰める。
空座町の端、明らかに異質な四角い柱の立つそこには一分と経たずに到着したと思う。人の気配のない、死んだような町並みの中にそれはあった。閻魔蟋蟀によく似ている、真っ黒なドーム状の何か。その少し手前で足を止める。
お椀を被せたような形のそれは、よく見れば植物のようだった。私の知っている中で一番近いのは茨だろうか。東仙隊長の閻魔蟋蟀のようになめらかな丸天井ではなく、刺を持つ茎が複雑に絡み合ってドームを形成しているらしい。綾瀬川五席の霊圧は確かにこの中に感じられるのに、その姿は一切見えなかった。遠巻きにそれを観察しながら、私は眉間に皺を寄せる。どういう性質の結界かは分からないが、不用意に近づいて引き摺り込まれるような真似は出来ない。

「綾瀬川五席」

試しに名前を呼んでみたけれど、返答なんてあるはずもなかった。姿が見えないだけでなく、中の音声もこちらには届かないようだ。それだけこの茨が分厚いのか、そもそもそういう性質の植物なのかは判別出来なかった。まぁ、どちらでもやることは大して変わらない。

―――とりあえず、鬼道か。

息を吐きながら、私は左手を前に突き出す。

「君臨者よ、」

中が見えず聞こえず、それでも内側に彼がいるのは確実なのだから、まずは吹き飛ばしてみるしかない。
外側からの鬼道で飛ばせないのなら、直接杜鵑草で攻撃するか何か別の手段を講じることになるだろう。最悪、結界から破面が出てくる瞬間を待つことになる。けれどそれはつまり、結界内の綾瀬川五席を見殺しにするということと同義だ。

「血肉の仮面・万象・羽搏き、」

手のひらに霊力を集中させる。出来るだけ堅く、出来るだけ強い鬼道を。この結界を一撃で吹き飛ばすことが出来れば、それが最善だ。
詠唱しながら、私はふと目を細めた。殆ど同時に、ズン、という衝撃が空を揺らして息を止める。

手のひらに渦巻いていた霊力があっという間に散じる。その間にも、茨で出来た結界はパラパラとその姿を消し始めていた。集めた落ち葉を蹴散らすような、そんな光景だった。掻き消えるように飛ばされていくそれを呆然と見ながら、私は咄嗟にその場から距離を取った。曲光を使って一時的に姿を隠して息を潜める。
結界が解ける理由は通常二つしかない。術者自らの意思で解いたか、術者が結界を保てない程のダメージを負ったか、だ。傍目から見てどちらなのかは判別出来なかった。杜鵑草を握る右手に力を込めて、いつでも動けるように身構える。どちらの場合であっても、出遅れる訳には行かない。

「―――ごちそうさま」

解けては飛ばされて消えていくその黒い庭園の中から、最初に現れたのは綾瀬川五席の姿だった。結界が消えてしまえば当たり前のように感じられる彼の霊圧は戦闘開始時に比べれば小さくなっているけれど、大きく負傷したという訳ではなさそうで思わず息をつく。同時に、小さく苦笑が漏れた。私に心配されたなんて知れたら彼は心底嫌がりそうだ。けれど、私だって一瞬でも生死の心配をした相手が、まさか囚われていた結界から花を咥え
登場するだなんて思っていなかった。その点に関しては文句を言いたい。

「ズルいのね…こんなスゴいの…隠し持ってるなんて…」

殆ど裸体にも近い破面が、倒れ伏しながら呟く。嫌味でも負け惜しみでもなく、純粋な敬意からの言葉のようだった。ああ、彼はやっぱり十一番隊の隊士なのだ。破面の声音はいつか班目さんが更木隊長の話をしていた時のそれにとてもよく似ている。大体こういう感じで十一番隊の隊士は増えていくのだ。微笑ましいような呆れたような気持ちで私は首を竦める。
綾瀬川五席は無傷ではないものの、戦闘不能な程の重傷ではない。彼に見つかる前にこの場を動いた方が良いかもしれない―――今後を考えるならば。
曲光を解かないまま私はそっと後退った。けれど二段変化、卍解、という聞き慣れた単語が耳に入って足を止める。

「…違うよ、卍解じゃない」

静かに目を伏せて彼は呟いた。それが本当に静かな穏やかな表情で、彼が嘘や虚実を口にしているのではないと察せられた。彼は卍解を習得している訳ではない。けれど私は彼の斬魄刀が二段変化を遂げることを知らない。

「『瑠璃色孔雀』は僕の斬魄刀の、“本当の名前”だよ」

鼓動が少しだけ早くなる。綾瀬川五席は私が居ることに未だ気づいていない。彼はただ目の前の破面に対して話しているのだ。そして破面の口ぶりからすれば、恐らく茨に覆い隠された結界の中でのみそれは姿を現した。
どうしよう、と動揺したのは一瞬だ。迷いながら、けれど私はすぐさま踵を返した。曲光に隠れたまま移動出来る最大距離を、歪な瞬歩で一気に駆け抜ける。

―――これは、私が聞いてはいけない話だ。

きっとそうだった。彼は恐らく多くの人に、それを隠しているのだと思う。班目さんなら知っているのだろうか。聞いたことなんてないけれど、もし班目さんすら知らないことならば尚更私が知っていいはずがない。

『申し上げます、』

私が今回授かった役目は遊撃手だ。早朝部屋を訪れた隠密機動が総隊長の言葉をそのまま、と伝えてくれたものだった。曰く戦闘開始時には動かず、折を見て加勢せよという。あの老翁がそんな命令を下すなんて思っても居なかった。それは言葉そのままに、『好きに動け』ということにほかならない。
綾瀬川五席は無事だった。一方破面は重傷で、自ら張った結界の維持すら難しい。ならば私がこれ以上この場にいる理由などなかった。

上空では未だ戦闘は始まっていなかった。轟々と燃える総隊長の霊圧の檻に、藍染隊長含め隊長格三人が閉じ込められているままだ。檜佐木副隊長と吉良副隊長の霊圧も変わりない。二人とも相手の破面の霊圧は全く感じられないか消え入るように小さく萎んでいて、隊長格の心配はやはりいらなかったのだと胸を撫で下ろす。班目さんは、と意識を向けたところで私は漸く異変に気がついた。

「……っ何やって……!」

思わず眉を顰めながら、空を蹴る足に力を込めて出来うる限りの速度で飛ぶ。
班目さんの霊圧は、恐ろしく小さく揺れていた。

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