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空は何色をしている


最後の日は、あっさりとやってきた。

轟々と唸る霊気の流れを見るのは初めてではなかった。現世への任務の際は必ず通る門だし、今までの任務の数を考えれば数えられないほどの回数これを見ているはずだった。それでもどこかいつもと違って見えるのは、地獄蝶がいないせいだろうか。彼らは死神ではないから、地獄蝶を連れて行けない。断界を通って拘突に追われて現世へ抜けるのだろうけれど、実は私はその光景を一度も見たことがなかった。

「しかし、珍しいね。君がこんなところまで出てくるなんて」
「……どこかで聞いたような台詞ですね」
「ん?」
「いえ。……旅禍に、伝えたいことがありまして」

作業をする十三番隊隊士に指示を出していた浮竹隊長が、私の横に立つ。腕を組んで仁王立ちしているところを見ると、今日はどうやら具合は悪くないらしい。私は少しだけ目線を逸らして苦笑した。浮竹隊長はそれ以上詳しいところを突っ込んでは来なかった。その代わりに、こちらを見ないままいつもと同じ人好きのする笑みを浮かべる。

「体はもう大丈夫なのかい?」
「ええ。……白伏食らった程度なので、あの場にいた誰よりも無傷だったと思います」
「駆けつけた時は驚いたよ。真っ白な顔をして倒れていたから」

彼に体の心配をされる日が来るとは正直思っていなかった。曖昧に頷いて、私は小さく頭を垂れた。
あの日何の役にも立たないまま地面に転がっていた私を最初に抱えてくれたのは浮竹隊長らしい。落ち着いた後山田七席が教えてくれた。あの場に私がいることを予測していた人間は、藍染隊長―――もう隊長ではないけれど―――を含め一人としていなかったのだと思う。檜佐木副隊長は多分東仙隊長のことでいっぱいいっぱいだったのだろうし、それを考えれば端っこに倒れていたのを見つけてもらえただけで有難い。

「なぁ、桜木谷。君は―――」

浮竹隊長が、不意に真剣な声音でこちらを振り向いた。顔を上げると、困ったような迷っているような表情を浮かべて私を見ていた。一瞬どきりと心臓が鳴って、私は口を噤んだ。

「―――あれ、桜木谷……だっけか」

続く言葉を待つ前に、背後から声を掛けられた。浮竹隊長が振り向いて「お、」と声を上げたので、私も釣られて振り返る。「よぉ」なんて気軽に手を上げる彼は、先日私が泣きじゃくったことを覚えているからか困ったような笑顔だった。その後ろにはあの日救護室にいた少女と(織姫ちゃん、というらしい。既に名前から可愛い)、二人の知らない少年。視線を下げると、黒猫が寄り添うように一緒に歩いている。ああ、そういえば最初の情報を聞いたとき、「猫が一緒だとかそうじゃねぇとか」なんて檜佐木副隊長が言っていた気がする。本当に一緒だったのか。

「どうしたんだよ、こんなとこまで」
「見送りに」
「お前も中々物好きだな」
「そうですね」

怪我は完治したのか、体中に巻かれていた包帯はなくなっていた。それを見て心からほっとする。結局尸魂界の誰一人として、藍染隊長の企みを阻止できた者はいないのだ。たった十数年しか生きていない少年に、私達は救われた。

「香波ちゃん」

黒崎一護の後ろからひょっこり顔を出した少女が、とたとたと駆け寄ってくる。前に見たときは死覇装を来ていたからか、現世の服を来ている姿は別人のように思えた。過去にも何度か思ったのだけれど、現世の服は何というかこう、ぴったりとしているなぁ、とか。同性の癖に胸元に思わず視線を向けてしまって、私は自分の頬を叩く。…羨ましい。

「もう、その…大丈夫?」
「はい。…ありがとう。その、先日はごめんなさい」
「ううん!元気になったんなら良かった!」

へらりと力の抜けるような笑みを浮かべて、彼女はぱんぱんと私の両肩を叩いた。それに驚いて大きく瞬きをすると、「はっ!ごめんね!痛かった?!」なんて突然手を止めてあからさまに「しまったー!」な顔をしてみせるから、つい顔が綻んで思わず笑ってしまった。私が笑ったのを見て、彼女は一度びっくりしたように目を開いてから、すぐにまた穏やかな笑顔になった。

「何だ、そんな顔も出来んのかよ」

私達のやりとりを見ていた黒崎一護が、呆れたように笑いながら頬を掻く。何が、と首を傾げると、「そうやって笑ってる方がずっと似合ってるよ」と彼は言った。は、と意味のない声が口から漏れた。咄嗟に反応を返せずいた私の頭に、ずしっと誰かの体重が掛かった。

「それ!もっと言ってやってよ、この子気ィ抜くとすぐ仏頂面になるんだから」
「……乱菊さん」
「ほら香波、一護だって笑ってる方が可愛いって言ってるわよ」
「可愛いとは言ってねェよ!」
「何よ、じゃあ可愛くないって言うの?」
「…そんなこと言ってねェだろ!」

未だ嘗てこんなに混ぜっ返すのが得意な人を私は見たことがない。百年以上生きている私が言うのだから、それはちょっとしたものだと思う。
いつの間にか後ろに立っていた乱菊さんに、抱きつかれるような形で私はのめっていた。肩口に豊満な胸がどんと乗っていて、ずっしりとしたその重量感にどきっとする(ううう羨ましい…)。私が織姫ちゃんと話している間にわらわら人が集まりつつあったらしい。気がつくと、乱菊さんだけでなく阿散井副隊長や朽木隊長まで来ている。朽木隊長はあの日以降、ほんの少し雰囲気が柔らかくなった気がした。

頭越しに黒崎一護と言い合っていた彼女が、不意に「そういえば、」と言葉を止めた。むすっとした表情の黒崎一護が「何だよ」と吐き捨てるように言う。一変して不機嫌そうになった彼を全く気にも止めず、乱菊さんは後ろから私を覗き込んだ。

「あんた、何でわざわざこんなとこまで来てるの?」

言われて、私は彼を見上げた。黒崎一護は何故か「な、なんだよ」と口を尖らせる。ああ、本当にまだ少年なんだな。苦笑するように口元を緩めて、真っ直ぐに向き直った。

「ありがとう」

たった一言、口にすると彼はきょとんと目を開いた。その一言を言うためだけに、今日この場へ来たのだと行ったら彼は驚くのだろうか。あの日、子供のように泣いた私はきちんとお礼を言えなかった。それだけが心残りだった。

「貴方のお陰で、私は前に進める」
「……何もしてねぇよ、俺は」
「それでも、貴方の言葉に私は救われた」

事実を伝えただけだ、と彼は言うけれど。
百年間、ずっと立ち竦んでいた私には十分過ぎるほどの言葉だった。彼がそれを意図したわけでなくとも、あの人が私に伝えるつもりがあって言ったわけでなくとも。ふわり、と揺れた赤い花が頷くように香る。

難しい顔をした黒崎一護は、「えーっと、」なんて分かりやすい前置きをして私を見下ろした。困ったような何か考えているような表情が、温かかった。

「多分、さ。あの人のことだから、何か理由があんだよ」
「!」
「別にあんたのこと忘れてるとか、そういうんじゃなくて」
「……うん」
「どうでもいいなんて思ってねぇよ。あの人はちゃんと、あんたのこと思ってるよ」
「…………うん、」

ああ、もう。
何故最後の最後で、そんなことを言ってくれるのだろう。泣きそうになった私の顔を見て、彼は慌てたようにわたわたする。ぐし、と乱暴に頭を撫でられて、私は目を瞑った。初めて触れたその手のひらは、やっぱり同じように温かかった。

一護、と呼ばれる声がして彼は振り向いた。浴衣姿の朽木さんが駆けてきて、それで恐らく全ての準備が整ったようだった。

一言二言交わして、彼らは穿界門へ向かった。乱菊さんと、気づかないうちにやってきていた班目さんに挟まれて、私はその背を見送った。光に吸い込まれるようにして彼らの姿が消えていっても、暫くその場を動けなかった。

―――ありがとう、

もう見えなくなった背中に向かって、私は再び心の中で呟く。

貴方のお陰で私は、もう少しだけ頑張れる。

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