「律太、お金がいるの?」 


 電波塔をあとにして家に戻ったぼくは、右耳の向こうでなんとなく海文の毒電波の存在を感じ取りながら、出ていったときとちっとも体勢を変えていない律太の背中に声をかけた。もうそこにはないはずの緑色の石の眼鏡の幻覚に頭蓋を捕われた彼はゆっくりとぼくを振り返り、新たな芽が網膜の向こう側で静かに疼く右目を揺れる水面のように震わせると、そのはだかの目をすっと猛禽類のように細める。 


「花奈から聞いたのか?」 
「いつもの妄想かと思ったけど、なんとなくね。理由はでたらめだろうけど、だいたいは本当のような気がした」 


 三角形をしたテーブルの空いていた一辺に自分の領域を確保して、チョコレート味の歯磨き粉の夢を見るためにまた眠りの世界に沈み込んでいる花奈を見やってぼくが言うと、律太もつられたように花奈に目をやって、すぐにぼくに視線を戻した。ある朝に手品のように消えてしまった彼の緑色の石でつくられた眼鏡は、ほかならぬ彼自身が誰かとお金で交換したことをぼくは知っていた。 


「…金がいるんだ。たくさん」 
「知ってる」 
「隆人…」 


 律太は熱っぽい目でぼくを見た。助けを乞う罠にかかった鹿の目であり、恵みを乞う哀れな人の目であり、不特定多数の偶像に躍らされる愚かな群衆の目でもあった。律太はとても博識で頭がいいけれど、その強固な賢人の護りは信じられないくらい脆弱な部分をいくつか含有している。それは、その護りのほとんどが自己完結的な優越感でつくられていて、その上あまりにも彼自身が下品な物事に無知であるからだった。律太の口から「金を貸してくれ」という最悪で聞き慣れた言葉が飛び出してしまう前にぼくはそれに蓋をする。「…その話は花奈がいないときにしよう」、ぼくがそう言って微笑みかけると律太は何かを言いたそうにしてやめた。ぼくのそばに花奈がいないときなんてないことを指摘しようとして、それが不毛な議論であることに気づいたのだろう。ぼくは話題を変えた。 


「海文のとこへ行ってきたよ」 
「…ああ、あの東方のお嬢さんか。どうだった?」 
「相変わらずだね。久々に出てきてくれたと思ったけど、やっぱりパラシュート部隊に夢中だ」 


 いささか大げさに頭を振って答えると、律太は曇った表情で花奈に目をやって、そうか、と口の中で呟いた。手が焼けるのは誰しもが誰かにとって同じことではあったけれど、特に海文はきわめてコミュニケーションを取ることが困難で、ケモノか何かと見なすにしてもあまりに懐柔が難しい存在だった。だからこそ彼女が花奈にあそこまで懐いているという点は不自然であり、不気味であり、最終手段である。花奈は家の外にめったに出ることができないのだから、それは。 


「…あのお嬢さんはわかっているんじゃないのか。花奈は、自分が唯一格上に立てる相手だと」 
「やめてよ、そういうこと言うの。ここはユートピアだよ」 


 どこか遠くを見る様子の律太の言葉に思わず噛み付いた。そんなぼくを律太はもっと冷めた目で見ることをぼくは知っていて、そして実際そのとおりになった。緑色の石の眼鏡を通さないはだかの眼球がぼくをじっと見て、哀れむような、腹立たしげなような、不思議な色の感情を浮かべた。その色はちょうど、月の光を当てたときの緑色の石の幾何学で奇跡的でスペクトラムな輝き方みたいだった。鈍い音を立てて彼の右の眼球が破裂して、ひときわ大きくて、美しい青い花が咲いた。 


「――そうだな。ここは『理想郷』だ」 


 円環の綻びに気がついたのか、それとも単純に開花の音が耳障りだったのか、眠っていた花奈がかすかにまた潰れた鈴を転がす声を上げ、ゆっくりと目を開けた。「…花奈。おはよう」、何分も前から用意していた言葉をやっと手渡すと、彼女の生命の温度の髪がゆっくりと揺れた。長すぎて先端が絡まり合ってしまいそうな睫毛がゆるゆると空気を撫でて、やがてそれに守られた眼球がぬるりと粘膜の音を立てそうな様子で動いてこちらを見た。「…ルート。ルート……」、ぼくの名前を二度繰り返して、いつもの壊れたように柔らかな笑顔を忘れた花奈は、律太の存在まで忘れてしまっていたみたいだった。 


「ルート、またあなたが死ぬ夢をみたわ」 
「うん。ぼくは死なないよ」 
「ルート、あなたはつぎの誕生日までに死んでしまうわ」 
「うん。死なないよ」 


 目を開けただけでまだ頭の中身は甘い夢のなかに取り残されているかのように、美しく濁った瞳で花奈は今にも泣き出しそうに呪詛の言葉を吐いた。それは自分に繋がる因果の全てから、自分に重なるイデアの影の全てから、するりと身を翻してすり抜けてしまうここにいないはずの存在のようだった。花奈は骨と大差ないほど白くて細い指をぼくの指に絡めてきた。寝床で腐るほど温めた夢の温度が伝わってきた。 


「ルート、あなたがいなくなるのがこわい」 
「うん。いなくならないよ」 
「ルート、ちがうの。わたしね」 


 花奈の瞳が大きく揺れた。これから滅んでしまおうとしている世界が抱く海原のように、とても大きく、不穏に揺れた。きっとそのときその世界はよく晴れた綺麗な夜空をしていて、まるで銃痕のように大きな満月が静かに貼りついている。海にはその満月の姿が鏡のようにうつりこんでいて、やがて大きな異変に揺れる水面に、その存在は掻き消されたまま二度と戻らないのだ。 
 ぼくは花奈の体を抱き寄せた。異常なほど火照った表面の奥には、割れた鏡のように無音で、痛々しくて、とても冷たい核が包み込まれているのだった。ぼくはその冷たい核に直接手を伸ばしてそっと触れてしまうことができる。そのあまりに息が止まるほどの冷たさを直に感じ取ることができる。 
 律太が視界の端でゆっくりと目を閉じるのが見えた。彼の右目の青い花は散り始めていて、自由落下する花びらはまるで涙のように見えた。 




 この花奈の冷たいからだが腐ってしまうまでずっと暖め続けてあげるのだとぼくはあの日に心に決めた。 
 ぼくはもう花奈以外に何も要らないし、何もかもを失ってしまえるのだ。




】【】【→】
(110718)



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -