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 私があの光景を、忘れられる日は来るのだろうか?


 酷い夢で目が覚めた。
 悪い汗に、全身がじっとりと塗(まみ)れた感覚。呼吸が浅く、早い。心臓が早鐘を打ち、肋骨の内側を激しく叩いている。
 吐き気がした。現実と夢の狭間を、意識が覚束なく浮遊する。混乱する頭を抱え、呻きとともに長く息を吐き出した。置き時計のコチ、コチ、という音が、いやに大きく響く。今のが現実でないことを、必死に自分に言い聞かせる。
 掌で顔を覆う。胃の底がむかむかして、せり上がってくるものがある。必死に夢の情景を振り払おうとした。
 あれはいつもの、自分が担任を務めている教室だったと思う。けれど、机も椅子も無かった。生徒たちが、べっとりと血に濡れて床に倒れていた。うつ伏せた格好で、物言わぬ有機体となって、誰もぴくりともしない。そしてなぜか、教室の中央に"あの人"がいた。"あの時"と同じ格好で永久に押し黙り、リノリウムに広がった銀色の髪だけが、ただただ美しかった。自分は教壇に立ち、何もできないまま、虚ろな目でその光景を見つめていた。
 もう何年も前のことなのに、とうの昔に過ぎたことなのに、なぜ今さら、夢に見るのだろう。
 情けなかった。
 暗闇の中、震える手で携帯電話のディスプレイを点灯させると、時刻は午前3時半になりかけだった。夢の続きを見る気がして、また眠る気にもなれず、規則正しい居候の寝息の横を通りすぎ、顔を洗いに洗面台へ向かう。
 未明の闇と静寂は色濃く、電気を点けても払いきれない暗がりが、部屋の隅に居凝(いこご)っている。夜の沈黙が耳に刺さって痛い。鏡の前に立てば、目の下にクマを作った人相の悪い男が、こちらを睨み返してくる。
 不意に、鏡に映った自分がせせら笑ったように感じて、肌が粟立つ。鏡の中のもう一人の自分が、自分を嘲笑う。

 ――あれが、お前の想像しうる最悪の形の悪夢だよ。

 鏡に映る私は冷たい声音で言う。
 自分が関わった人々が傷つき、倒れ、もはや身じろぎひとつしない。彼らの、彼女らの瞳は、もう何も映さない。取り返しのつかない事態。それを見ているだけの無力な自分。
 私はその光景を最も恐れている。この目に映る人々の、笑顔くらいは守ってみせる、そう自分に誓ったくせに。
 鏡写しの私がさらに言い募る。

 ――お前は卑怯者で、臆病者だ。そんな人間が、他人の幸福を守ろうとしているだと? 甚だしい思い上がりだな。

 私は知っている。己が卑怯なことも、臆病なことも。これは私の声だ。目を背けて見ないふりをしてきた、心の弱いところの縫い目が綻んで、あれから8年も経ったいまになって、襤褸(ぼろ)がどんどんこぼれだす。
 自分自身に糾弾されるなど、こんなにも滑稽で、しかも笑えないことはない。
 自分による幻聴はいよいよ、凄惨さを増した。

 ――笑わせるなよ。まさか忘れたわけではないだろう?

 私の分身が、虚無を映したその目を見開き、嘲う。
 
 ――大切な人ひとり、守れなかったくせに。
 
「黙れ」

 自分の内なる声を振り払いたくて、そう口に出していた。喉が震えていた。むっとして暑い夜なのに、寒気が背中を這い登る。冷や汗が顎を伝う。
 何のことはない。鏡の中には、必死な形相でこちらを噛みつかんばかりに睨む、愚かとしか形容できない男がいるだけだ。
 耳にきいんと高い静寂の音が帰ってくる。
 汗を手の甲で拭う。私は正気を失いつつあるのかもしれない。そう考えるとぞっとした。
 気分の悪さに半分ぼうっとしながら蛇口をひねり、いつもより僅かに冷たい水を掌でせき止める。顔に水流を受けると、吐き気は幾分か和らいだ。水を止め、顔面を覆ったタオルから目を上げると、後ろにいつの間にかヴェルが立っていた。鏡の向こうで、彼の鮮やかな色のシャツが、暗夜から浮き上がっている。
 鏡越しに、ヴェルと目が合う。

「辛そうだな」
「……起こしたか。すまん」
「大方、怖ーい夢を見て目が覚めちゃった、ってとこか?」

 ヴェルは小馬鹿にするように、にやにやと品の無い笑みを浮かべながら、言った。彼の尖った犬歯は暗所にあって、なおぎらりと存在を主張している。私にはそこにいるのが、獣ではないと明瞭に述べることができない。
 怖い夢。そのとおりだ。過去と現在とがぐちゃぐちゃに混じり合った悪夢。だが、その原因はきっとこの男だ。
 私のなかで、過去の象徴となった男。
 忌まわしい記憶の扉を開ける鍵。
 記憶の奥深くの場景が、海馬の底から引きずり上げられたのは、過去を引き連れてヴェルが私の前に再び現れたからなのだ。

「誰のせいだと思っている」
「おいおい、俺のせいかい?」
 
 ヴェルは肩をすくめる。
 私だって分かっている。この感情が八つ当たりにすぎないことを。私はただ、人のせいにして、感化されやすい自分の弱さに目を瞑りたいだけだ。
 分かっているのに、ヴェルに当たり散らすのをやめられない。

「だから貴様になど、二度と会いたくなかったんだ」
「ずいぶんと悲しいことを言うねェ」
「せっかく普通の日本人としての生活にも馴染んで、真っ当な人間になれたところだったのに――」
「真っ当? お前がか?」

 ヴェルが喉の奥を鳴らしてくっくっと笑う。

「自分の手をよく見てみろよ」

 首がヴェルの命令に屈するように動き、視界がそれに追従する。
 血。
 自分のものとも他人のものとも知れないねばついた赤で、両の手が染まっている。血はところどころどす黒く変色し、皮膚組織にこびりついている。
 驚きはなかった。そういえばそうだった、と思い出しただけだった。そうだ、私の両手は血塗れだ。どんなにしつこく手を拭っても、過去から目を逸らし続けても、自分のした行為を無かったことにはできないんだ。
 瞬きをする。血はきれいさっぱり消え失せた。

「お前は過去の記憶に、一生縛られつづける。そういう運命なんだよ」

 託宣を告げるがごときヴェルの囁き。
 運命。呪縛。いまそのふたつの言葉は同じ意味を持つ。
 背中を無数の虫がぞわぞわと這いずる、そんな幻覚に吐き気を催しながら、声をふり絞る。

「……勝手なことを抜かすな」
「勝手? 笑わせんなよ、自分で自分の生き方を縛ってるのはお前じゃねえか」
「何を――」
「お前は大事な人を目の前で失って、他人にこんな思いはさせないと心に決めたんだろ。誰にも好かれずに、誰も愛さずに、嫌われ役に撤するって。それのどこが、過去に縛られてないって言えるんだよ、なあ?」

 戦慄した。ヴェルの言うとおりだった。だが、その決心を口に出したことはない。なぜこの男は知っているのだ?
 絶句する私を、ヴェルがさらに追い詰める。

「だがお前は、自分の決めた約束事を自分で破った。優しい優しい錦くんは、とっても可哀想なお坊っちゃんに、深入りせずにはいられなかったってわけだ。つくづくお前は甘ちゃんだよ。甘すぎてゲロ吐きそうだぜ」
「……っ」
「お前の甘さは、周りの人間を傷つける。いつか必ずな」

 ヴェルの口元は今や、私の耳のすぐそばにある。
 耳管に直接吹き込まれる、冷たい責め苦。頭の中でがんがんと反響するそれが、ヴェルの声なのか、自分の内なる声なのか、私にはもはや判別できなくなっていた。
 8年前の現実の悪夢。
 今しがたの悪夢の光景。
 人間は器用な動物だから、眠らずともちゃんと悪夢を見ることができる。私はまた、過ちを繰り返そうとしているだけなのだろうかと、自問自答する。

「誰か特定の人を大切にすればするほど、別れが辛くなるだけだ。それはお前が一番よく分かってるだろ?」
「……茅ヶ崎のことなら、傷つけさせはしない。私が盾になる」
「どうかな」

 ヴェルは嘲りの感情を隠さない。

「守るものができると、人は弱くなるもんだ。お前にはその覚悟ができてねぇよ。これっぽっちもな」

 そこでふと、弱みをぎゅうぎゅうと絞め続ける男が真顔になる。

「他人に首を突っ込むならな、それ相応の覚悟が必要なんだよ。お前はもう、坊っちゃんや他の誰かに危険が及ぶとしたら、見殺しにはできねェはずだ。自分を危険にさらすことだって、何だってしちまうだろ。誰かを大切にするってのは、そういう弱さをしょいこむってことだぜ。いつまで過去に囚われてるつもりだよ? 誰かを守るつもりなら、弱さをぜんぶ背負った上で、強くならなきゃいけねえんだって」
「……」
「お前は弱いよ。俺よりも、8年前よりもな」

 表情を緩め、残酷なほど優しい笑みを浮かべて、ヴェルが言った。容赦のない指摘だった。憎まれ口を叩くくらいしか、彼のすべてに打ちのめされた私にできることはなかった。

「……何でもお見通しか。貴様に私の何が分かるというんだ」

 ヴェルはひきつるように笑い、鏡越しに私の顔を指差す。

「何でも分かるさ。なんたって俺はお前自身だからな」
「――何?」
「お前、自分が自分と話していることにも気づかないのか?」
「……!?」

 顔から血の気が引く。焦って後ろを振り向くが、確かにそこには誰もいなかった。開け放した洗面所のドアの向こうには、黒々とした闇が続いているだけだ。
 どくどくと脈打つ体に言い聞かせる。そうだ、あいつは寝るときにシャツなど着ないじゃないか。
 彼の幻の薄ら笑いが網膜に焼きついているように思え、喉を絞められてもいないのに、私は息苦しさにあえいだ。
 こんな悪夢を、繰り返し見ている気がする。
 倦怠感に体を引きずられながら、洗面所をあとにした。血の通った本物のヴェルは、高いびきを夜の帳(とばり)に響かせて、いまだ夢のなかにいた。きっと彼は、私のような夢とは無縁なのだろう。
 目を覚ませ、と心のなかで声が広がる。先程までの幻聴とは違う、自分が自分の意思で呟いた言葉だ。
 目を覚ますんだ。目の前のことを、直視するんだ。
 分かっている、と私は自分自身に答える。分かっているさ。
 もちろん、分かっているとも。
 窓の外を見た。薄明の気配はすぐそこまで迫ってきていたけれど、その度に黒々とした夜は訪れ、私を絡み取り、悪夢を見せるだろう。
 きっと何度も。
 何度でも。

――昏い夜のための命題

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