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 祭りの夜は、きらびやかな喧騒だ。


 中学に入学して初めての夏休み、僕は未咲と一緒に、毎年来ている神社の夏祭りのただ中にいた。
 隣を歩く未咲は、白地に薄黄の花があしらわれた浴衣を着ている。中学に上がる前には長かった髪がばっさり短くなっていて、そのうえ後頭部の髪はまとめ上げられていたから、普段は見えないほそい首すじとうなじが、すっかりあらわになっていた。
 人混みのなかではぐれないようにと、僕の右手は未咲の左手にしっかりと握られていた。

「輝くんも一緒に来れば良かったのにねえ」

 りんご飴をかじりながら、未咲が言う。
 僕はそうだね、と答える。
 輝は僕たち二人の幼なじみだ。去年もこの祭りには3人で来た。それなのに今日の朝になって、"僕は妹と行くから"なんて輝が言い出したのはかなり不可解だった。輝の妹の灯(あかり)ちゃんとは、僕も未咲も親しくしているし、4人で遊ぶことだってある。輝が謎めいた笑顔を僕に向けていることも、僕の心の疑念を加速させた。
 神社の敷地は広く、石畳の参拝道の両側にはずらりと出店が並び、祭りでは定番の、焼きそばやらたこ焼きやら焼きとうもろこしやらわたあめやら、風車やらお面やら水ヨーヨーやら射的やらの文字が躍り、さまざまな音、さまざまな匂いをあたりに漂わせている。広場みたいにぽっかりと空いた空間には巨大な櫓が立てられ、てっぺんで打ち鳴らされる太鼓と、スピーカーからの大音量のお囃子(はやし)に合わせて、老若男女が盆踊りに興じている。
 どこもかしこもものすごい人だかりだ。去年まで何とも思わなかったのに、その人の多さで、僕は気分が悪くなりはじめていた。

「龍介くんも何か食べたらいいのに。お小遣い持ってきてるんでしょ?」
「ああ……うん……」

 僕は生返事をする。おなかは減っている気はするけれど、いま何か口にしたら、ぜんぶ吐いてしまう予感がした。
 未咲は機嫌よく、僕の手を引いてあっちへひらり、こっちへひらり、と出店をあちこち見て回る。浴衣の袖がひるがえって、花から花へ飛びうつる蝶の様子にそっくりだ。未咲が首を動かすたび、髪の飾りが提灯の灯りにきらきらと輝いて、きれいだった。

「あ、金魚すくい、やりたいな」

 不意に未咲が屈みこむ。青いプラスチックの水槽の中で、数えきれない朱色と黒のいのちが、あてどもなく泳いでいる。
 未咲がしゃがむのに続き、僕もお金を払ってポイと器を受け取り、未咲の隣に腰をおろした。水面が光を反射する。エアポンプがたてるぶーんという低い駆動音で、賑々しさがかき消される。半透明の金魚の尾びれがゆっくりゆらめいて、なぜだか夢のなかの光景みたいに思えた。
 未咲がポイを水に入れ、白の斑(ふ)の入った一匹の金魚を慎重に追う。金魚はたぶん、自分が狙われていることにまだ気づいていない。ポイのプラスチックの輪と、紙の境に金魚が乗ったタイミング、そこでふいっと引き上げる。
 紙が破れた。
 金魚が身をよじる。
 水音もたてず、少し水面を乱しただけで、金魚は水槽のなかに戻る。彼は、あるいは彼女は、何事もなかったように泳ぎを再開して、朱色の群れに紛れた。

「あー、駄目だあ。わたし、金魚すくいできたことない」

 未咲が心底残念そうな声を出した。
 その一部始終を黙って見ていた僕は、水槽に向き直る。和紙をすべて水に濡らして、手近な場所に金魚が浮き上がってくるのを待つ。これと決めたら、金魚の進行方向に合わせてポイを移動する。金魚の動きに逆らわないようにしながら、すばやくポイを器の方へ動かした。

「あ!」

 僕の器へと泳ぐ場所を変えた朱色の流線形。未咲が目を輝かせる。僕はもう一匹、黒い金魚をすくったところでわざと紙を破いて、終わりにした。すくおうと思えば何匹だってすくえるけど、そう何匹もいたって仕方ない。
 店のおじさんに金魚をビニール袋に入れてもらい、その出店をあとにした。袋を掲げて、透きとおったひれを持つ生き物をじっと見る。
 たった数十ミリリットルの水のなかで乱舞する、小さな二つのいのち。
 その奥ゆかしいうつくしさ。
 僕はそれを、未咲に差し出した。

「……これ」
「え、貰っていいの?」
「僕の家、どうせ水槽ないから」
「ほんと!?ありがとう!」

 未咲が屈託なく、笑う。僕はなんだか、心臓を誰かにつつかれているような、くすぐったい気持ちになった。
 また二人で手を繋いで、ぶらぶらと店を回っていると、近くに小学校からの同級生が何人かいるのが視界に入った。あ、嫌だな、と咄嗟に思う。僕にいつも難癖をつけてくる奴らだったからだ。
 僕の視線を感じたみたいに、ひょいとその中の一人が僕たちの方を向いた。目がちょっと見開かれ、口元に感じの悪い笑みがじわっと浮く。つるんでいる仲間の肩を叩き、不躾に僕らを指差した。

「おい、龍介と未咲じゃねーか。手なんか繋いじゃって、デート?」
「まじだー、やっぱり、付き合ってんだろ?」
「人がいないとこに行って、ちゅーとかしちゃったりするわけ?」

 ひゅーひゅーと囃し立てられる。顔がかっと熱くなった。これまで何を言われてもこんなことはなかった。恥ずかしい。初めてそう感じた。
 未咲は軽くため息を吐き、

「だったら何?」

 と応じた。おおー、とどよめく同級生らに背を向けて、あんなの気にしなくていいから、と僕の耳元に囁いた。
 そのあと、どうしてだか、未咲の顔をまともに見れなくなってしまった。提灯の淡い黄色の光に照らされ、未咲の汗ばんだうなじが、つやりとした光を放つ。後れ毛が肌に貼りついているのが、なぜか見てはいけないもののような気がして、僕は目を逸らし続ける。
 繋がれた手に意識を丸ごと持っていかれたように、そこだけが妙に熱い。足元がぼんやりとして、雲の上を歩くってこんな感じだろうか、と考えた。

「龍介くん、大丈夫? 気分悪い?」

 未咲が僕の顔を覗きこむ。夜になっても残る暑さのせいか、未咲の頬は上気し、いつもより白く見える肌は、滲んだ汗でしっとりしている。唇の動きが、いやになまめかしい。
 心臓が馬鹿になったんじゃないか。そう思ってしまうほど、激しく動悸がした。

「うん……ちょっと……」
「どこかで休もっか」

 未咲の手に引かれるまま、霧がかかった頭を抱え、僕はもつれる足を動かした。
 僕らがたどり着いたのは、ちょっとした屋根と椅子が設置された、神社に隣り合う植物苑の休憩スペースだった。ここまで来ると、周囲には誰もいない。人々のさざめきも、祭り囃子も、湿った空気の膜の向こうにある。
 どこかでもう秋の虫が鳴いている。
 未咲はいつの間にか買っていた、もこもこしたわたあめを僕の手に渡そうとした。

「甘いものを食べたら、元気になるかもよ」
「いや……」

 食べたら、たぶん気分の悪さが増すだけだろう。未咲の厚意を断るのは心苦しかったけれど、僕には気遣いをして一口だけ食べる、それくらいの余裕すらなかった。
 未咲は気を害した風もなく、そっか、と呟いてわたあめを口に運ぶ。ちらちらと現れる舌が、変に赤く、肉感を伴って見え、胸の内側がざわざわする。目の前がぐるぐるする。これまでとはまた別の気持ち悪さに、手で口を覆ってうつむいた。
 僕は気がついていた。未咲の手の感触が、少しずつ変わってきていることに。細くすとんとして、人形の指みたいだった未咲の手は、やわらかさをまとい、女の子の手になっていた。対する僕の体は急に骨ばってきて、喉仏も目立つようになって、声も低くなって。未咲の体は、曲線を帯びて、丸みが目立つようになって、いつしか彼女は下着を着けていていて。
 どうしてだかいまになって、制服姿の未咲が脳裏に甦る。制服の真っ白なシャツから、下着がちょっとだけ透けて見えていた。その光景が、僕の胸の内をぐちゃぐちゃに掻きまわす。
 呼吸の仕方が分からなくなった。吐き気がする。自分の思考、自分の存在、その気持ちの悪さに。
 未咲の浴衣の下の裸の姿を、脳が勝手に思い描きはじめる。
 混乱。動揺。焦り。
 もう駄目だと思った。僕はおかしくなってしまったんだ。
 僕は立ち上がった。

「龍介くん?」

 心配そうに、未咲がこちらを見上げる。くりくりした丸い目に見つめられると、どうにかなってしまいそうだった。
 いますぐここで、そのきれいな浴衣を、脱がせてしまいたい。
 そう衝動的に考えている自分に、愕然とした。
 未咲から顔を背けて、涙をこらえながら、震える声を絞りだす。

「……もう、龍介くんって呼ばないで」
「龍介くん……? どうしたの?」
「呼ぶなって言ってるだろ!」

 僕は駆け出した。不安げな未咲を置き去りにして。
 自分への嫌悪感で、いてもたってもいられなかった。怖かった。その場にいたら僕は、僕じゃなくなってしまう気がした。未咲が僕の名前を叫んだけれど、聞こえないふりをした。
 未咲の浴衣姿。きれいなうなじ。細い首すじ。やわらかい手。同級生の言葉。ねばついた視線。男子と女子である僕ら。走りながら、いろんな情景が胸につっかえた。未咲が浴衣を着ていて良かったと思った。下駄を履いていたら、あの未咲でも僕に追いつけやしないから。
 家に着くまで、一度も立ち止まらなかった。
 その夜、自分の部屋に着いてから、僕は少し泣いた。

――あの夏の羽化の痛み

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