5 生活するという事は、音を発生させる。服を着ていれば僅かに動いただけでも衣擦れの音がするし、たとえ裸であったとしても、動けば空気を振動させて何かしらの音を発生させている。アルフォンスが無音で居れば居るだけ、他者の――この場合はエドワードの動きで音が発生する。動かなくても呼吸音が聞こえる。それをつぶさに聞き取って、アルフォンスはエドワードの動向を知ることができた。 微かな衣擦れの音の後、素足が絨毯を踏みしめる音。機械鎧の関節が軋む音、段々と、エドワードの呼吸音がアルフォンスに近付いてくる気配―――そこで、アルフォンスの視界に、唐突に光が戻った。 「目、醒めたか?」 間近から覗き込む蜂蜜色の視線に射抜かれたアルフォンスがゆっくりと首を振ると、金属の擦れる音がした。アルフォンスの頭部と胴体の合わせ目が擦れる音だ。――呪いが解けた音、にしては、何とも情緒が無い音だった。 こんな時はセレナーデとかメヌエットとか、そんな音が聞こえるものだろうと思っていた。アルフォンスは音楽に造詣が深い訳ではないので、この場面で求められる音の演出が何故セレナーデもしくはメヌエットなのかを詳細に語る事は出来ないが、取り敢えず今のこの状況は何かが違う、そう思った。 「…醒めないよ。っていうか寝てないし、眠らないし」 自分が始めた『眠り姫ごっこ』も忘れ、アルフォンスはあまりにも間近にあるエドワードの顔を凝視した。兄の予想だにしない行動には心底驚いていたが、平静を装おうとして出てきたのは不機嫌そうな声だった。 「なんだよ、せっかく付き合ってやったのに…」 不満そうな声を出すエドワードだったが、なかなかアルフォンスの上から退こうとしない。何かがおかしい。アルフォンスは思った。 先程まではただ単に、老婦人との会話で盛り上がったテンションで突っ走っていただけだった。突っ走っていただけだから、エドワードに何かしらの対応を求めていた訳ではない。ただ、こんな鎧姿の子供を笑って受け入れてくれた老婦人の優しさが嬉しかった、それだけだったのに。 アルフォンスは間近のエドワードの顔をまじまじと見た。そもそもどうして、兄の顔がこんなに近くにあるのか。目尻を少しだけ赤くして、寝乱れて解けてしまった髪を靡かせ、アルフォンスに覆い被さって鎧の上に乗り上げ、口調こそぶっきらぼうに囁く声はどうしてこんなに、 甘く聴こえてしまうのだろうか。 「…ぁあっ!僕のファーストキス!なんて事してくれるんだよ!」 たっぷり数分放心して、ようやく現状把握ができたアルフォンスが悲鳴を上げると、エドワードは眉間にたっぷりと皺を寄せ、やっとアルフォンスの上から退いた。 「うっせえな、兄弟とのなんてノーカンだろ」 「うわああああ!ひどいひどいひどい!」 そう、あれは間違いなく口付けだった。体感を待たないアルフォンスには何の感触もなかったが、エドワードの顔の位置、角度、漏れ聞こえた微かな啄ばむような音、それらを総合すると、どうしたって口付けをされていた。 なんて事を、なんてことをするんだろうこの兄は。アルフォンスはそのままベッドにうつ伏せになり、全く何も感じなかったファーストキス喪失の衝撃に悶えた。 エドワードはまた溜め息を吐くと、ベッドからゆっくりと立ち上がった。 「…どこ行くの」 部屋の扉の方へと移動するエドワードの気配に、アルフォンスは顔を上げて尋ねた。 「クソして寝る」 「………」 振り返りもせずに部屋を出て行くエドワードの背中を見送って、アルフォンスも溜め息をついた。 兄の、エドワードは、時々こんな風に突飛な行動に出る。何をどうしたら弟に、それもただの弟じゃない、鎧の弟の口元に、口付けなどするのだろう。家族だから、もっと小さな頃はお互いにおやすみのキスもしたが、それは唇の端だったり頬だったり、とにかく唇じゃなかった。今のアルフォンスは鎧の身体なので、口のような場所にエドワードの唇が触れただけであって、厳密には口付けではないけれど、それにしたって恥ずかしい。何てことを、なんてことをされてしまったんだろう。 しばらく赤面するような恥ずかしさを味わったアルフォンスだったが、そもそもの原因は、自分が『眠り姫』の真似をしてエドワードにキスを強請ったから――そう思い至るまで、時間は掛からなかった。 用を済ませ、手洗いついでに鏡を覗き込むと、エドワードの頬は腫れたように真っ赤に染まっていた。 「…なんて顔してんだ…」 眉間に深い皺を刻み、まだ感触の残る唇を左手で覆い隠す。感触だけではない。冷たさ、硬さ、研磨された表面の滑らかさ。それどころか磨き油の味まで味わってしまった。磨き油は口にするものではない。当たり前の事だが。 「舌まで突っ込むか、オレは…」 降って湧いたチャンスとばかりに、がっついて食らい付いた自分の浅ましさと情けなさに溜め息が漏れる。 弟は、ただの戯れのつもりだっただろうに。戯れに乗った自分が、戯れでは済まなくなってしまった。 案の定アルフォンスは怒り罵ってきたが、本当に酷い兄貴だ。弟が何も感じないのを良い事に、恋人同士がする口付けのように何度も啄ばみ、あまつさえ舌を差し込むなんて――それも結構深く。おかげでまだ、磨き油を舐めとってしまったエドワードの舌はピリピリと痺れている。 変に思われただろうか、思われたに違いない。自分への嫌悪と羞恥に、エドワードは地団駄を踏んだ。どんな顔で弟の前に戻ればいいのか、平静を装って何もなかったように…考えただけで恥ずかしくなり、頭を掻き毟って叫びだしたくなる。 ふと、次の目的地が程々大きな街だった事を思い出した。弟の磨き油がそろそろ切れるので、新しい物を購入するつもりでいたのだ。 次は、少量くらいなら舐めても舌が痺れない磨き油を探そう、できたら甘酸っぱい味の――などと考えてしまって、エドワードは自分の性懲りの無さに頭を抱えて悶え転げた。 ←text top |