その日は久しぶりに朝から妻の名前とふたりでゆっくり過ごす予定だったのだが、妹からの連絡で、急ぎ出かけなくてはならなくなった。
席を立ち、“すまない”と声をかける。
いつもならば名前は同じように立ち上がって“行ってらっしゃい”と微笑んで玄関までおれを見送る。
しかしその日に限って彼女の様子は違った。椅子に腰かけたまま、こちらを見もせず口を開く。


『ええ、結構ですよ。急用で妻より妹を優先する夫には、もう慣れっこです。お好きなだけお屋敷を空けてください』

「…何だと?」


普段のおれなら、妻の嫌味くらい聞き流してやれたはずだ。それができなかった辺り、相当、おれも彼女に思うところがあったらしい。
言い訳がましいが、おれが妹の呼び出しで出かけることが多いように、名前もまた、弟らと過ごしている時間が多いのだ。それを棚に上げるような言いように腹が立った。


「それで、おれが屋敷を空けている間に、義弟と茶会を楽しもうと言うわけか? いいご身分だな、ペロリン♪」

『!』

「おれが知らないとでも思っていたか?」


一度首を擡げた不満は、留まることを知らぬように口をついて出る。
立ち上がったまま、椅子を戻すこともせず、名前の顔がひどく歪んでいくさまを見ながら、なおも彼女を傷つける言葉は止まらない。


「顔に似合わずしたたかな女だ。お茶だけならまだしも、一線を越えようなどと考えたら、わかっているだろうなァ?」

『そんなこと、一度だって考えたこと…ひどい…ひどいわ…!』

「どうだか。おまえは若いし、弟たちのなかには歳が近く気の合う者もいるだろう」


いつ、その気が移ろうことか。
いつの間にか握り締めていた椅子の背もたれが、みしりと鈍い音を立てて軋んだ。


「…おれたちは、ここまでのようだな。帰ったら、ママに離縁の相談でもしてみよう」


言葉もないと言う様子で、瞳に大きな涙を浮かべて震える名前を置き去りにして、おれは連絡を寄越した妹のもとへ出かけた。

…否、出かけようとした。が、リビングにある小さな鏡から響いた声が、それを止めた。


「落ち着いてよ兄さん!」

「……ブリュレ?」

『ブリュレ姉さま?』


突然の声に涙も引っ込んだのか、名前がチェストのうえの鏡を持って、少し気まずそうにおれの傍にくる。鏡が見えるよう膝をつくと、いっそう距離の縮まった名前からふわりと花のような香りがした。おれが以前よい香りだと褒めた匂いだった。


「聞いてたわよ、もう! 離縁なんて馬鹿なこと言わないで!」

「…ブリュレ。これは私たちの問題であってだな、」

「原因はあたしたち弟妹にもあるでしょう? だったらふたりだけの問題じゃないわよ」


手のなかの鏡から、おれへ、戸惑いの視線をそっと向けてくる名前。


「結局、ヤキモチ妬いてるだけじゃない、ふたりとも」

『えっ』

「……」


小さな鏡を覗き込んで、妻とふたり、顔を曇らせることのなんと滑稽なことか。
おれたちの顔色など構うことなく、鏡のなかでブリュレが言う。


「ペロスペロー兄さんは名前が弟たちに構われるのがイヤだって言ってたし、名前は兄さんがあたしたちばかり構って自分に構ってくれないのがイヤだって言ってたじゃない」

『待っ、ブリュレ姉さま、それは内緒って言ったのに…!』

「内緒にするのがよくないの。気持ちは言葉で伝え合わなきゃ」

『そう、だけど…!』


慌てた様子で顔を赤らめる名前。
おれが先程剥き出したような嫉妬心を、名前も、ひた隠しにして持っていたのだ。
その事実に、ふっ、と。気が抜けるのがわかった。


「すれ違いで離縁なんて、勘弁してよね」


“ママを巻き込んで大ごとにする前に、ちゃんと話し合うべきよ”
妹の言葉に、確かに、と頷いた。
ママに話を通すのは最終手段だ。それに、聞き入れてくれるとは到底思えない。
名前もそれがわかっているようで、どこか腹を据えたように見える。


「…ブリュレ、さっきの連絡の用件なんだが、急ぎでなければ日を改めてくれないか? これから、名前と話し合わねばならんのでね」

「ええ、また今度にするわ」

「すまないな、ペロリン♪」


ブリュレはひらひらと手を振って鏡のなかから消えた。
途端に静まり返る部屋に、時計の秒針の音が響く。
おれは名前の手から鏡を抜き取って、テーブルクロスのうえに伏せて置いた。


「…さて、仕切り直しといこうか」

『…はい。お茶、淹れ直しますね』

「あァ、手伝おう」


存外、話し合いと言う話し合いは、必要ないように思えた。
やや世話焼きなところのある妹のおかげだ。今度会うときは、美味しいお菓子をご馳走しよう。もちろん、可能ならその席には妻も呼ぶ。


「正直、離縁なんて微塵も考えられない話だ」

『ふふ、ええ、私も』

「愛しているよ、名前」


新しくお湯を注ぐ名前の顔が赤く染まる。
久しく見ていなかった愛しい表情と、ポットから香り立つダージリンに癒されながら、大切な妻と何を話そうかと思案した。

Relative jealousy
title by 甘露さま


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