四六時中傍にいたあの人が部屋を留守にしたとき、私は初めて、あの人のもとを逃げ出した。
廊下を駆け抜け、甲板に躍り出る。
久々に見た青い空のしたにはなぜかしばらく帰らないと言ったはずのあの人がいて、私はあっと言う間に部屋へと連れ戻された。

逃亡を謀った一度目の罰は、私の右の足の骨を砕いた。


「痛いか? その痛みをよく覚えておけよ」




右足が自由を取り戻した頃、船はある島に停泊した。そこであの人がまた、しばらく留守にすると言って部屋を出て行った。三日が経ってもあの人は帰らない。
私は部屋に食事を運んで来る男の頭を花瓶で殴りつけ、服を奪った。変装した私に気が付かないのか、止める者はいなかった。
船を降りることに成功した私は、弾む胸を抑えて、出航寸前の商船にどうにか乗せてくれるよう交渉し、ついに島を出た。

商船が着いた先は小さな島で、穏やかな風景に遠い故郷を思い出し、涙を流した。
やっと、自由になれたんだ。
しかしその自由は瞬く間に終わりを迎えた。

故郷によく似た島に着いて四日目のよく晴れた朝、島の港にあの人のスマイルが見えた。
震える足を叱咤し逃げようとするも虚しく、振り返った先にあの人は現れ、私はまた船へと連れ戻された。

逃亡を謀った二度目の罰は、両の手足に鉄の枷を嵌め、胸元にはあの人のスマイルを焼きつけた。


「ずいぶんと物覚えが悪いらしい…。これからは鏡を見るたび、自分の立場を思い知るんだな」




手足の自由を得るため、私は初めて、あの人に媚びた。
猫撫で声で名前を呼び、蛇のように肢体を絡ませる。最初こそ訝るよう表情を消したが、すぐにいつもの笑みを浮かべ、あの人は私を受け入れた。

プライドも恥も捨てて媚び続けているうちに、船はついに、あの人の治める国に着いた。
船にいたときと同じように、あの人は私を自分の部屋に繋いだ。もう海に逃げることもできない。どうしようもない絶望に沈みかける心を奮わせて、私はなお、媚び続けた。

鎖の鳴る音にも心が痛まなくなった頃、あの人は私の枷を外した。


「さァ、おまえの望んだ自由だ。もうどこへ行くのも好きにするといい」


床に落ちる枷と鎖の音がやけに耳障りに聞こえた。
私はソファに座るあの人の膝のうえから降り、咎められない足でドアを目指し、咎められない手でドアを押し開ける。
外に面した廊下の窓から、花の香りのするそよ風が頬を撫でた。


「どうした、名前」


後ろから聞こえる嗤い声。ハッと息を飲んだ途端に足が震え出し、私はその場に崩れ落ちる。


「行かねェのか? 逃げたかったんだろう?」


そうだ。どこへだって行ける。ここから逃げられる。私は、ずっとそうしたかった。
でも、でも。


『…どこ、へ……?』


座り込んだ私の正面にあの人がやって来てしゃがみ込み、涙で濡れた私の頬を手で包んだ。
ああ、そうだ。この手。この大きな残忍な手が、全部壊して、奪ってしまったんだ。
私が行きたかった場所なんて、私が逃げたかった場所なんて、もうずっとなかったんだ。


「いい子だ。おまえはそうやって、おれのモノであればいい」


私もとっくに壊されて、奪われていたんだ。

それはそれは滑稽な物語でした
title by 愛執


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