※
これの続きのようなもの
奇跡的な再会を果たした名前との時間を過ごすため、その日の予定はすべてキャンセルに。
…したかったのだが、如何せん、そう言うわけにはいかなかった。実に多くを費やして創り上げたこの巨艦を蔑ろにはできない。
「名前、スイートルームを用意しよう」
『まあ、ありがとう。嬉しいわ』
「…だから、仕事に片が付くまでのあいだ、部屋で待っていてくれないか」
顔をほころばせる名前を腕のなかに閉じ込めたままそう付け足せば、名前は目を丸くしたあと苦笑を浮かべた。
『せっかく大勝ちしたのだから、あなたの自慢の艦内でショッピングを楽しませて欲しいわ』
「だが…」
言い淀むおれの胸に手を添えて、名前がまるで子供に聞かせるようにやわらかい声で言う。
『大丈夫。やっと会えたのよ? ろくに話もしないまま、いなくなったりしないわ』
「……」
『ね、テゾーロ』
「……はぁ。わかった。ルームキーは渡しておく」
『ふふ、ありがとう』
手に加えて添えられた頬の熱を感じながら、適わないものだな、と内心苦笑した。
◆
ショーも含め、すべての予定を済ませた頃にはすっかり夜も更け、どっと疲れていた。こんな日に限ってハードなスケジュールを組んだことを我ながら呪うばかりだ。襲いくる眠気を払うよう頭を振る。
名前がホテルに戻りしだい連絡するよう指示していたフロントからの報告で、彼女が部屋にいることはわかっていた。
ドアの前で、少し居住まいを正す。三度のノックのあと、返事はなかった。
「名前?」
訝って部屋に入ると、かすかに漂う薔薇の香り。
香りのもとはリビングにあるローテーブルのうえに横たわった真っ赤な薔薇の花束だった。花屋の仕立て、と言うわけではなさそうだ。ラッピングにやや乱雑さがうかがえる。男からの贈り物ではないと確信して、花束から視線を上げれば、スイートの目玉である大きな窓の傍に淡い色のワンピースに着替えた名前の姿を見つける。
『ステラ、』
「名前、」
おれが彼女に呼びかけたとき、ガラスにぼんやりと映る名前の口がわずかに動くのが見えた。ひどく懐かしい響きに思えたのは、幻想だろうか。
『あら、おかえりなさい、テゾーロ。気が付かなかったわ。遅くまでお疲れさま』
名前は薄いレースのカーテンを閉めて、微笑みながらおれのもとへ歩いてくる。
手の届く距離になった瞬間、細い腕を引いてその身を自分の腕に収めた。想い続けた月がそこに在ることを確かめるよう、うなじを、背中を、腰を、何度も何度もなぞる。
『ふふ、こんなにスキンシップの多い人だったかしら』
「…まだ信じられないのさ。わかるだろう?」
『…ええ、よくわかるわ。私も同じだもの』
言いながら、名前の華奢な腕がおれの手と同じようにおれの身体をなぞった。
舌を絡めるより、身体を重ねるより、ずっと、深く。互いの熱を分け合って、ふたつをひとつに溶け合わせるようだった。胸の奥のほうが、感情を留めきれずに鈍く疼く。
「ああ…本当に、また会えたんだな」
『ええ、そうよ。ずいぶん捜したんだから』
「……なあ名前、今まで一体、」
“どこで何をしていたんだ”
その言葉は紡がれず、おれの唇は名前の細い人差し指に縫い止められた。最後に見たときと同じ美しい瞳が切なげに揺れる。瞬間、浅はかなことを聞いたと後悔した。
おれに言えない過去があるように、名前にも、きっとずっと、そんな過去があるに決まっているのだ。
『聞かないで。何も。私も聞かない』
「…あァ、そうだな。悪かった」
『いいえ、いいの』
名前はほっとしたように笑って、唇に添えていた指をおれの目元に滑らせた。
『それよりテゾーロ、あなたすごく疲れているんじゃない?』
「? そう見えるか?」
『とっても眠そうだから』
「……」
否定はできなかった。名前の体温をじかに感じているためか、部屋に入る前よりずっと、睡魔は近くに迫っていた。
名前に指の背でやわやわと頬を撫でられて、今にも気をやってしまいそうなほどだ。
『お部屋まで送るから、もう寝たほうがいいわ』
「…またおれをひとりにするつもりか?」
『え?』
「朝になったら、またいなくなるのか? またおれを残して消えるのか?」
おれを見つめる名前の目がきょとんと丸くなる。
自分で思っている以上に、眠気のピークにきているらしかった。そうでなければ、こんな、心の内を晒すような、子供じみた言葉が口にできようか。
しかし、朝が来ればまた、名前が夢のように消えてしまう気がしてならなかった。そんなことになったら、おれは、もう。
「…今夜はここで寝る」
『! そう、わかったわ。ちょうどベッドもふたつ、』
「ひとつでいい。名前ももう寝ろ」
『…ふふ、わかった』
頷いた彼女の手を引いて、リビングの奥にあるベッドルームへ入る。
そのままベッドへ向かおうとすると、名前が慌てておれのスーツとスカーフタイを預かって、壁際のハンガーに掛けた。
こちらに向き直った名前ごと、おれにはいささか小さいスイートルームのベッドへ雪崩れ込む。向かい合うように体勢を整え、彼女のやわい身体を抱き締めた。
「名前」
『ん、なあにテゾーロ』
「…起きたとき…」
『うん…?』
「起きたとき、傍にいなかったら…承知しない…」
“また勝手に消えたら、許さない”
腕のなかのぬくもりがたまらなく心地よくて、もうほとんど瞼の下りたまま低く言えば、夜毎聞いていたやわらかい声がくすくすと小気味よく笑って頷いた。
『ちゃんとここにいるわ』
「…あァ…そうしろ…ずっと……おまえは、おれの……」
『…おやすみなさい、テゾーロ』
髪や頬をなぞる愛しい指の熱を感じながら、深く深く、眠りに落ちた。
この温もりはもう二度と亡くしたくない。
おまえはおれの、おれだけの、眩い月なのだから。
リボンをほどいた特別な夜
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