ship's bell様提出作品。

窓の外、朝の薄い青のなかに、白い月は溶け込むよう残されていた。
夜が明けると淡くなって消えてしまうおまえが、今朝は確かに見えているのに、手にすることはできない。



最愛の星を亡くしたおれを支えたのは、ただそこに在り、微睡むだけの月だった。
残酷な現実を前に涙を流すことしかできなかった無力なおれの傍に寄り、何の言葉をかけるでもなく、月はただやさしい光をまとってそこに在った。

最初は疎ましかった。
慰めや同情が欲しいわけではなかったし、例えどんな言葉をかけられたとしても気が晴れるはずもなかったが、何を言うわけでもなく傍にいるだけの存在は、慰めより同情よりずっと居心地を悪くさせた。


――ひとりにしてくれ。一体何のつもりなんだ


感情に任せて何度も八つ当たりをした。だが月は、夜毎そこに在り続けた。

奴隷としての生活は想像を絶して過酷なものだった。
金さえあれば、こんなことにはならなかったのだ。美しい星が不幸のうちに死ぬこともなかったし、この身だって自由でいられたんだ。金さえ、あれば。怒りと恨みと執着を溜め続ける日々が続いた。
そんななかで、夜が来るたび傍で微睡む月は、いつしかおれにとってささやかな癒しになっていた。


――名前を、教えてくれないか


朝になると夢のように消えてしまう月にそうたずねたのは、いつのことだったか。
彼女はわずかに目を丸くし、想像の何倍ものやさしい声で名前、と答えた。

輝く星はもう二度と見られない。しかしおれはやわらかに闇を照らしてくれる月を得たのだ。何が何でも、今度は奪わせない。必ず自由になって、自由にしてみせる。
やわい光に癒されたはずの心はすでに歪み切っていて、名前の存在は金と生への執着をいっそう深めるものになった。

逃げるチャンスの訪れは突然だった。
名前の細い腕を掴んで燃え盛るマリージョアを脇目もふらず走った。逃げ延びて、生きて、自由になる。そのことだけを考えて走った。


――ここを出て、ふたりで暮らそう! 夜も朝も、もうずっと、共に生きよう!


数年ぶりに希望に満ちた想像を浮かべた瞬間のこと。
鋭い銃声が耳を劈いた。倒れる名前。流れる赤。眩暈がした。他の奴隷たちが奪った逃亡のための船は、もう目の前にあると言うのに。
名前はおれの手を引き剥がし、撃たれた人間とはおよそ思えない力でおれを突き飛ばした。


――逃げて。生きて


それが名前の最期の言葉だった。




「…ゾーロ様…テゾーロ様…テゾーロ様!」


呼びかけられて、はた、と我に返る。
朝の月に感化され、ずいぶん長い間物思いに耽ってしまったような気がしたが、手元のコーヒーからはまだかすかに湯気が立っていた。


「どうした」

「先程お伝えしました“ツキまくっているお客様”をVIPルームへご案内いたしました」

「ああ…。わかった。すぐ行こう」


警備責任者の言葉に、先刻、店を一軒買い取られかねない勝ちを見せている客がいるとの報告を受けたのを思い出す。こんな朝早くからよくやるものだ。それだけここが流行っていると言う事実は喜ばしいことなのだが。

タナカさんと共にVIPルームへ足を運ぶと、時間のせいでややひと気のないそこには女がひとり立っていた。
すらりとした体に添う透け感のある黒いドレス。開いた背中、その左肩には大きな青い星の刺青があった。不意にぞくりとした何かが伝う。


「…おはようございます、レディ。ずいぶんお強いようで」


仰々しく声をかけると、女はくるりとこちらを向いた。色の濃いサングラスが視線を読ませない。


『やっと、会えた』

「! その、声、」


女の声が鼓膜を震わせた瞬間、まるで雷にでも撃たれたかのような衝撃が走った。
月だ。無二だった星と同じように無残に奪われたはずの月。窓の外に浮かぶだけで決して手にはできない淡い月が、そこに在った。
ゆったりとした仕草でサングラスを外し、彼女が微笑む。


『会いたかった、テゾーロ』


状況のわからない者たちの困惑が伝わってきたが、どうでもよかった。
名前を抱き寄せて、腕にその温もりを感じる。生きている。名前が、生きて、今、ここに在る。


「こんなに特別な朝は初めてだ」


浮かびかけた涙をこらえてそう言えば、朝に会うのは初めてだったかしら、と名前は笑った。
今朝の月は、おれの手にある。

この朝にどうかリボンを掛けて
title by ship's bell


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