その日の空は清々しく晴れ渡り、風は穏やかに海を撫でていた。
青く揺れる波を分けて進むのは、一隻の白い船。
船首から船尾、帆を支える柱までもが純白に塗装されたその船は、船体のあちこちに草花を模した細やかな彫り込みがしてあり、まるで御伽の世界から飛び出してきたような幻想的な雰囲気を放っていた。
純白の船の船尾のデッキには、同じく純白のドレスをまとった女がひとり佇んでいた。静かに海を見つめる彼女の背後にある船室に続くドアから、背の高い男が顔を出す。
「名前、ずっとここにいたのか?」
『ええ、さいごの眺めですから』
背にかかった長身の男、ペロスペローの声に振り向くことなく、名前は頷いた。水面から跳ねた日差しが、眩く船の白を照らす。
目的地が近付いてきたのか、潮風に混じってかすかに甘い香りが鼻を掠め始めていた。
「あまり風にあたっていると体に障るぞ、ペロリン♪」
ペロスペローが名前の隣に立ち、そよぐ風に乱れた彼女の髪を整える。細い指に髪を撫でつけられるも、名前の視線がペロスペローに向くことはなく、ひたすら白に包まれ青い地平線を映すばかりだった。
「そろそろ着く頃だ。部屋に入って支度をしたほうがいい」
『私はこの身ひとつしか持っておりません』
「ああ、そうだったか。すまない」
素っ気ない名前の返事を気に留めるでもなく、ペロスペローは海の果てを見つめる名前の柔らかな髪を撫で続けた。
「この船もそのドレスも、何もかも君のためだと言うのに、どうやらお気に召してもらえなかったようだ」
残念だよ、と苦笑を浮かべるペロスペロー。
ともすればしかめ面の名前と、苦いなかにもこれ以上嬉しいことはないと言うのが隠し切れないペロスペローの表情はひどく対称的だった。
「ああほら、ご覧、美しい船と美しい君を飾る最後の仕上げだ」
白波に混じって純白の花々が純白の船を囲むよう流れてきた。瑞々しい香りを感じさせる花弁がふたりの視界に入った瞬間、デッキの手すりに置かれていただけの名前の手がぐっと握り込まれ、今の今まで微動だにしなかった体がその向こうへ跳びあがる。
「名前?!」
『白い船に白い服に、仕上げは白い花…まるで海に葬られた棺と故人と手向けの花のようですね』
この日初めて、名前の目とペロスペローの目が合った。
『“花嫁御寮の行列は死出の旅路”なんて、言い得て妙だと思いませんか』
「くくく、これも気に入らなかったらしい。ほら、危ないからこちらへ戻っておいで」
『“結婚は人生の墓場”とも言いますね』
「そうだな、どちらも物の例えに過ぎないさ」
名前の身体は手すりを掴んだ細腕に支えられているだけで、今にも白花の揺蕩う波間に吸い込まれてしまいそうだった。
「名前、言いたいことはあとでいくらでも聞いてやる。だから今すぐ戻りなさい」
少し手を伸ばすだけでその身をデッキへ戻すことは容易であろうが、これ以上彼女の機嫌を損ねたくないペロスペローは、あやすよう声をかける。
しかしそれも時間の問題だった。船はじきに万国へ到着する。
「これが最後だ。いい子だから、言うことを聞きなさい。名前、戻れ、今すぐ」
『…いや、です』
「はぁ……。残念だが、結婚式当日に花嫁に死なれる哀れな花婿になる気はないぞ。ペロリン♪」
言うが早いか、ペロスペローが名前の腕をぐいっと掴み、白いドレスをひらめかせ彼女の身体を難なくデッキへ引き戻した。海風にさらされてひんやりと冷めた名前の細い身を少々強く抱き締めると、彼女はペロスペローの胸に顔を埋めて嗚咽をこぼす。
『どうして…死なせてください…私はあなたの妻に相応しくない…』
「そんなわけないだろう。ママが決めたことなんだ」
『勝手に決められただけの、心が伴わない結婚なんて本当に墓場だわ…! 私はあなたをそんな目に遭わせたくないんです…わかって…』
己の腕のなかで肩を震わせる小さな女は、白い衣装のせいか、この白い船に溶け込んで消えてしまいそうだった。自分で誂えておきながら、と自嘲して、抱き締める腕の力を強めた。
「そんなふうに思ってこんな危ない真似をしたのか?」
白に包まれ、引き立てられた赤らむ目がそっとペロスペローを見あげる。いとけないその表情がたまらなく愛しかった。
船に乗ってからの素っ気のない態度も、先程の肝を冷やされる行動も、すべて自分を思いやってのことだったのだ。
「おれたちにとって、ママの決定は絶対だ」
『知っています…だから私は、』
「勝手に決められたからと言って、心が伴ってねェとは限らないだろう?」
『じゃあ、私と結婚したかったとおっしゃるんですか』
そんなことあるわけがないと言うように、視線を下げた名前が首を振る。
ペロスペローはそのいじらしい姿ににんまりと口角を上げずにいられなかった。
「そうでなけりゃ、この状況に説明がつかねェぜ」
『この、状況…?』
「純白のドレスをまとった美しい君を迎えるには、美しい船が要るじゃないか。海だって美しい花で飾り付けてやらねェともったいない」
『まあ…まさか、それでこんな白い船を…白い花を…?』
「あァ。それくらい、おれは名前との結婚を喜んでるのさ。ペロリン♪」
純白の花々が浮かぶ海を掻き分けて、ゆっくり帆を進める純白の船のうえ、純白のドレスをまとった女の顔が真っ赤に染まった。
ふたりを祝福する万国の大地は、もうすぐそこに見えていた。
好き過ぎて空回りtitle by
愛執
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