路地裏にひっそりと隠れるように看板を掲げるおよそ経営が成り立つとは思えぬ客足の酒場が気に入っていた。
店主は無類の海賊好きで、海兵のおれにすら“海賊はいいぞ!”などと熱弁する度胸の持ち主だった。軽口の言い合えるよい息抜きの場に、今日は先客がひとり。
『ああ、やっぱりいらっしゃいましたね、スモーカー大佐』
カウンターに腰かけて鮮やかなオレンジのグラスを手にこちらを向く女。知らずの間に溜め息がこぼれた。
「どうしてこうも先回りされるかね」
『ふふ、何年一緒にいると思ってるんですか。大佐の考えなんてお見通しですよ』
からからと笑って、女、名前は店主におれの酒を注文した。
教えた覚えのない“いつもの”を当てられる気味の悪さは微塵もなく、それどころか心地よさを感じてしまうのは春めいた感情のせいか。
「…で? おれの考えを見通して、わざわざ酒場まで来て酒も飲まずにおれを待ってたわけは何だ?」
店主からジョッキを受け取りながら、オレンジジュースをちびちび飲む名前に目を向ける。グラスを置いた名前は、いつもの笑顔を浮かべた。
『この前の、頭をかかえてらした書類のことなのですが』
「あーやめろ。頭が痛ェ。それを忘れたくてここに来てんだよ」
『わかってますよう。その頭痛の種を取りに来たんじゃないですか』
名前の目が細められて、よりやわらかな表情になる。
おれにとって都合のよい答えが返ってくるときの顔だ。だからと言うわけではない…こともないが、名前のその笑みはとても好ましかった。
『あれ、万事解決しておきましたよ。もう提出も済ませてあります』
「そりゃ助かった。悪ィな」
『はい、どういたしまして』
もっと手放しで褒めてやればいいものを、ひねた性格が邪魔をして、名前の頭に手を置くだけに留めてしまう。
それでも名前は心底嬉しそうに笑みを深めるのだ。もう何年も昔、海賊船に囚われていたこいつを助けたのをきっかけに傍に置き出してから、ずっと変わらない。
「泣く子も黙る大佐殿も、事務仕事相手じゃカタなしみてェだな?」
「うるせェ。おれにはおれのペースってもんがあんだよ」
『ふふ、書類の提出期限はペースを合わせてくれませんからね』
「そーゆーこった」
「何じゃそりゃ」
自分もジョッキに注いだ酒を煽りながら、店主が茶化す。柄にもないが、こんなひと時も悪くない、そう思った。
『あ、そうだ。あともうひとつ』
「あ?」
『店主さんにこれを…』
グラスを空にした名前がおもむろに鞄から封筒を取り出す。
そのなかから出てきたのは、麦わら帽子をかぶった満面の笑みの男の、手配書。
「何だ? このフザケたツラは?」
『他になかったんでしょうかね。賞金首とは思えません』
「新しい手配書かい?」
名前から手配書を受け取った店主が、こりゃあまた変わった子が海に出たもんだ、と興奮気味に呟いた。その海賊好きを知って、名前は手配書が更新されるたび届けてやっているようだ。
「モンキー・D・ルフィ、か。聞いたこともねえな」
『…“Dは必ずまた嵐を呼ぶ”…』
「? 何だ、名前?」
『あ、いえ。何でもありません』
馬鹿みたいな笑顔の手配書を見つめる名前の横顔がやけに神妙で、聞きこぼした言葉を聞き返したが名前が答えることはなかった。
『さて、それじゃあ用も済んだのでお暇しますね』
「もう? たまにはふたりで飲んでおいきよ」
『いえ、悩みの種を取りに来ただけですから』
おれが口を開くのを待たず、名前は席を立つ。
「忙しねえ奴だな」
『プライベートを邪魔したくないだけですよ』
コインを出すために鞄に手を入れた名前を横目に、おれはふたり分の紙幣をカウンターに置いた。名前は一瞬何か言おうと口を開けたが、おれが何を言っても聞かねえことを悟って、ごちそうさまです、と頭を下げた。
「帰るぞ。送ってく」
「送り狼に気を付けな、お嬢ちゃん」
「余計なこと言うんじゃねえよ」
『ふふ、ありえないですよ』
ほろ酔いの店主に名前が手を振って、おれたちは店を出た。
派出所の裏手の宿舎で寝泊まりするおれとは違い、名前は宿舎から少し離れたアパートに住んでいた。アパートの前まで来ると、名前がおれに向き直る。
『わざわざ送ってくださってありがとうございました』
「別に構わねえよ」
『ふふ、おやすみなさい』
「あァ」
宿舎に向かって歩き出すおれの背に、名前の視線があるのはわかったが、その表情が陰ったものであることは知りようもないことだった。
知らないほうがいいtitle by
愛執
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