時折、昔のことを思い出す。
身を置いていた海賊団から逃げ出したこと。人攫いの海賊に遭って囚われていたこと。スモーカーさんに、助けられたこと。
彼が、行く宛も帰る場所もなくて、傍に置いてくれと泣き縋った私を受け入れてくれたこと。
あのときの恩は忘れない。スモーカーさんが掬ってくれた命だから、この先は全部、スモーカーさんのために使う。彼はそんなこと望まないだろうけれど、私はそう生きようと誓った。
「本部に戻る話があったらしいな」
定期報告書をまとめていた私の背に、スモーカーさんの声がかかる。
見回りから帰ったあとは決まってコーヒーを飲むことを知っている私は、自然と席を立ち、カップとインスタントコーヒーの瓶を取り出した。
『藪から棒に、何の話ですか』
少し濃く淹れたコーヒーを差し出すと、カップではなく腕を掴まれる。
「このおれ相手にシラを切るか」
『知らないものを知らないと答えただけです』
ぎりり、と軋むほどに力のこもる厚い手に空いた手を添えるも、スモーカーさんは私の腕を離そうとしない。
「おまえが本当に知らねえなら、妙な話をしたたしぎの奴をしぼらなきゃならねェな」
『!』
「…どうした?」
『はぁ…意地が悪いですよ。たしぎさんを引き合いに出すなんて』
観念したのを悟って、カップを受け取り掴んでいた手を離すスモーカーさん。
私がわざとらしく腕をさすって恨めしい視線をやるも、彼は気に留めずいつものソファに腰を下ろしてコーヒーをあおった。
「ハナっから素直に吐きゃあいいんだよ。何を隠すことがある?」
再び席に着いた私の背後で、呆れた声色を響かせながら、スモーカーさんがソファの前のテーブルに無造作に置かれた石を手に取ったのが気配でわかった。
『石で遊んでる暇があるなら、書類に目を通してくださいよ』
「…頭の後ろに目でもついてんのか」
『いつも言ってるでしょう。大佐のやることなんて全部、』
「全部お見通し、だろ? 知ってるよ」
がらがら、と石がテーブルの隅へ寄せられる音。
私は書類を持ってスモーカーさんの向かいのソファに移動した。
「で。何で隠した」
『まだします? その話』
「まだ答えてねェだろ」
渡した書類に視線を落としたままのスモーカーさんの眉間にしわが増える。手元の紙の内容のせいか、私のせいか、はたまたその両方か。
「だいたい、本部に戻るってのは昇進じゃねえのか。なぜ受けなかった」
『大佐と同じで昇進に興味がないんですよう』
「あァ?」
ああ、またひとつしわが増えた。
およそ海兵とは思えない険しい顔に笑みがこぼれる。それを不審に思ったのか、文面を追っていたふたつの目がこちらを向いた。
「何だ」
『ふふ、とても怖い顔をしてらっしゃるのが面白くて』
「誰のせいだと思ってやがる」
『私ですね』
私が笑みを深めれば、比例するようスモーカーさんのしわも深まる。その反応が妙に心地よくて、胸の奥がくすぐったかった。
『どうせ断る話だったので、報告しようがしまいが同じだと思ったんです。口先だけでも、大佐の口から“本部に戻れ”なんて聞きたくなかったですし』
「…口先だけじゃねェかも知れねーだろうが」
『じゃあ、そう私に命令してください』
真っ直ぐ、鋭い目を見つめる。
『私はスモーカーさんの言葉しか聞きません。あなたが望むなら、本部だってどこだって行きますよ』
「……はぁ」
もくもくと、葉巻の煙が吐き出された。意地が悪いのは私のほうだった。
私はわかっているんだ。脆く泣き濡れた弱い私を知っているスモーカーさんが、そんな私を今更遠ざけるような真似などできないと言うことを。その証拠に今だって、“戻れ”と言わない理由を探している。
「…おまえにいなくなられちゃ、書類が雪崩を起こすだろうな」
『ふふ、ええ。そう答えたら、改めて連絡すると言われました。もう話は回ってこないでしょうね』
「ハッ、上も賢明だな」
スモーカーさんは手にしていた書類を乱雑にテーブルに投げた。私はそれを整えて、彼の空いた手に次の書類を渡す。先程まで私に向けられていた目はまた文面を追う。
「…名前」
『はい、何でしょう』
「おまえ、次にその手の話がきたら、自分のしたいようにしろよ。おれやこの派出所のことなんぞ考えなくていい」
『スモーカーさんがおっしゃるなら、そのように』
「ったくおまえはそうやってなァ…」
頭を掻きながら、まだ冒頭の数行しか読んでいないであろう紙切れがテーブルに置かれた。
「いいか、名前。おまえは自分のために生きることを覚えろ」
しかめっ面でも何でもない、とても真剣な顔。射貫くように強く、それでいて私のことを案ずる色を宿した目。野性的な風貌からは想像もつかないやさしい姿が目の前にあった。
「おまえはおれの都合のいいように動く。おれが命じるより先に、おれの立ち回りやすいように動く。それにゃあおれも周りも助けられてる。感謝してるよ。それは事実だ」
『…恐縮です』
「だが、それだけだ。感謝ひとつこそしてやれど、他は何も返してやれねェ」
ああ、このやさしい人は、私が自己犠牲の精神だけで、自分に尽くしていると思っているらしい。そんなことあるはずがないのに、なんて、いじらしいのだろうか。
「おれに恩義があるのはわかるが、」
『ねえ、スモーカーさん』
私が呼びかけたあと、しんとした部屋のドアの向こうで、派手な音がした。心配げな軍曹さんの声もする。きっとたしぎさんが見回りから戻って、また転んだんだろう。慌ただしい足音がこちらへ近付いてくる。
『スモーカーさん、あなたが何を考えているかはわかります。でも私は、今も昔も、自分のためにしか生きたことはありません』
「名前、」
「すみませんスモーカーさん、ただいま戻りました!」
予想通り、少し慌てた様子のたしぎさんが部屋に入ってきた。勢いよく開けられたドアの起こしたかすかな風が、テーブル上の書類を撫でる。
私は冷たいコーヒーを淹れるためにソファから立ち上がった。
「あっ! ごめんなさい、お話し中でしたか?!」
『いいえ、今済んだところです。ね、スモーカー大佐』
スモーカーさんはまだ納得いかなげに眉を寄せていたが、私が気付かないふりを決め込むのを見て、短く息を吐いて書類をまとめ始めた。
「まだ済んでねェからな」
『…では、また改めて』
「?」
話がわからない、と言ったふうのたしぎさんにアイスコーヒーを渡して、自分の席に着く。
背後の気配はやや不機嫌で、ああ、やってしまったな、と少し後悔をした。
恩義があるのはわかるが。
スモーカーさんがさっき言った言葉。そのあとに続くのはきっと、いつまでもそれにこだわる必要はないとか、そこまで気負うことじゃないとか、そんな辺りだろう。
『ごめんなさい…』
「え? 何か言いました、名前さん?」
『いいえ、何でもありません』
残念ながら、私が恩義と無縁に生きる日は来ない。
もう少しこのままでいてtitle by
愛執
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