兎と出会った日

強くなりたい、と言った私に母が紹介してくれたのがその男だった。
纏う空気は柔らかく、屈強な戦士にも見えないその男を見て、
母は私の考えに反対なんだろうな、と少しさびしく思ったほどだった。
「この子が白華の娘?」
「はい。珠鶴、と言います。」
弱々しく掠れた声で母が答えて優しげな笑みを向ける。
その表情は、父に向けるものとも私に向けるものともどこか違って見えて、なんだか羨ましかった。
ふと、大好きな母が奪われるのではないか、と感じてその男に敵意を灯した。
「いい名前だね。それに白華に似てとても美人になりそうだ。」
くすくすと笑いながら言うと、母は長い袖で口元を隠してふふっと笑って返した。
「さ、珠鶴。兎草さんに、ご挨拶……して、ください。」
母にそっと背中を押され、一歩近付く。
「はじめまして。きつねめ、すづ……です。」
軽く頭を下げると、目の前の男はふにゃりと笑った。
「初めまして。今日から君の先生になります。兎草悠次郎です。」
そう言いながら右手を出してきたので、仕方なく自分を出して握る。
私の不満や不安が分かったかのように、彼はくすっと笑うと「よろしくね。」と告げて手を離した。

兎草さんの印象はとにかくよく笑う人、だった。
口を開けて大きな笑い声を出す、穏やかににこにこと笑う、常に微笑みを絶やさない人だった。
父のように世話しない表情変化とはまた違った、たくさんの表情を持っていた。
私が必死に打ち込んでいるいるときも穏やかな表情で接するので悔しくて仕方がない時もあった。
「私、そんなに弱いですか?」
何年たっても片手で受け流される不満が溜まりに溜まって聞いたことがある。
「そんなことないよ。稽古もしっかりやっているし、来るたびに強くなったなって思っているよ。」
縁側でのんびり団子を頬張りながら微笑む。
「……でも、いつまで経っても両手使ってくれないし。」
「ああ、そのことか。」
拗ねる私を見てふっと目を細めると懐かしそうに空を仰いだ。
「右腕はね、あまり動かないんだよ。昔、怪我をしてしまってね。」
母が寝る前にしてくれた昔話の語りのような口調で言う彼に、私は不味いことを聞いたと体を強張らせた。
そんな私を、目の前の大男はふっと笑う。
「気にしなくていいよ。怪我はすぐ治ったから。ただね、その時ずっと逃げていたからね……癖、がついちゃって。」
誰かに悔いるような、かなしそうな声が漂う。
空に溶けそうな浅葱色の瞳が、とても寂しそうだった。
こんな顔、初めて見た。
私が釘付けになっていると、その表情はすぐに消えた。
「だから、片腕でも拗ねないでね。」
ちょっと茶目っけを加えて笑う。
もうあの表情の残り香すらないその笑みに私は「拗ねてないです。」とそっぽを向いた。


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